発表題目:モーリス・ブランショにおける「関係なき関係」をめぐって
伊藤 亮太(早稲田大学)
モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』がジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』への応答として書かれたことはよく知られている。同様に、ナンシーが自らの書物のタイトルに冠する「無為」という概念がブランショに由来していることも周知のとおりだろう。こうした事情が一つの要因となって、両者の共同体論はほとんど同様の試みとして扱われてきたように思われる。確かに両者は、ジョルジュ・バタイユの思想から新たな共同体理論を構築しうる、と考えている点で同意している。その新たな理論とは「何らかの集合的位格への融合」を排除した共同体を志向するものである。しかしながら、共同体ないし人々の関係の基礎として扱われるものは、それぞれ異なっている。ナンシーにとって共同体の基礎となるのは「共に」、「分有」、「共‐存在」などだと言っていいだろうが、ブランショはこれらすべてを決して積極的には評価してはいない。そこで本発表では、長らく見過ごされてきたブランショとナンシーそれぞれの共同体論の違いを問題にしつつ、ブランショがどのような仕方で、いかなる共同体の可能性を描出しようとしていたのかを論じていく。主に扱うのは『明かしえぬ共同体』ではなく、それ以前の著作、特に『終わりなき対話』である。この著作では明示的に共同体ないし共同性について論じられているわけではないが、エマニュエル・レヴィナスの『全体性と無限』の受容の結果として、他なるものといかに関係するかという問題が全編の通奏低音となっていると言える。そしてこの取り組みの読解から見出されるのは、ブランショが存在さえ共通のものとして持つことがないとみなす関係、いわば関係なき関係というあり方なのだ。
関係なき関係」といった撞着的表現はブランショの著作に頻繁にみられるものだが、これは彼の共同体論を考えていくうえで一つの重要なカギとなっている。というのも、ここで二つの同じ語のあいだに置かれた「…なきsans」は、前後の語を切り離しながら結びつける、媒介なき媒介となっているからである。著作のタイトルとして用いられている「対話entretenir」」という語にブランショは、こうした媒介なき媒介としての「あいだentre」を「保つtenir」という意味を見出している。この点においてentretenirはdialogueと決定的に区別される。ブランショにとってdialogueとは「二つのロゴス」でしかなく、つねに同一性にもとづいた弁証法的二者関係にすぎないのである。
したがって、ブランショが『終わりなき対話』で目指すのは、「ロゴス」に回収されないような「対話」の言葉の在り処を標定することとなる。そして「対話」における言葉はそれ自体同一性としての意味を逃れるものとなるだろう。これをブランショは「中性的なもの」と呼ぶ。原義としてラテン語の「ne uter(一方でも他方でもない)」を持つこの語は、誰に対しても非固有のもの、誰にも我有化されえないなにものかを言わんとしている。この「中性的なもの」から発した「関係なき関係」の様相を描くこと、これが本発表の目論見となる。