発表題目:ベルクソン哲学におけるindividu、individualité、individuation①
―物質と生命―

米田 翼(大阪大学)

 本発表は、20世紀フランスを代表する生の哲学者の一人H. Bergson(1859-1941)の哲学における個体論の再構成というプログラムの一貫であり、ここでは、物質と生命の関係性を、個体論の観点から問い直すことを主眼とする。ベルクソン哲学において、物質と生命がどのように関わっているか、という問題は明らかにされているとは言い難い。また、従来のベルクソン読解では、彼の唯心論的な側面が強調されてきたきらいがある。例えばM. Kolkmanは、『物質と記憶』における逆転のモデルから、『創造的進化』における中断(あるいは衝突)のモデルへとベルクソンが変更を加えた、と指摘している(Kolkman, 2007)。しかし発表者はコルクマンのように、「逆転か中断か」を問うのは擬似問題であると考える。結論を先取りすれば、ベルクソン哲学において、物質と生命の関係性が錯綜しているように見えるのは、個体 individu、個体性 individualité、そして個体化 individuationのいずれの観点から物質と生命について語っているのを考慮していないためである。この問題を検討するために、本発表は以下のような構成をとる。
 まず第一節では、先行研究がほとんど存在しないベルクソンの栄養摂取論を検討する。彼の哲学において個体性とは、栄養摂取という自己保存的な欲求にしたがって行動する際に、知覚の働きによって形成されるものである。また、そうして外界に個体性を見出しつつ行動する各身体を形成する要因として意識が浮かびあがってくる。この意識は、生命そのものである超意識とは階層が異なることが神経系の議論を通して明らかになるであろう。生命が三つの主要なラインー植物的麻痺、本能、知性ーへと次第に分化していく中で、意識が徐々に具現化されていったものが神経系なのであって逆ではない。神経系はすでに形成された個体であり、個体化を考えなければ、我々は生命そのものへと迫ることはできないのだ。しかし、個体化を実際に観察することはできず、われわれが経験的に知りうるのは、生命の現われとして生じてくる個体のみである。そこで、個体化の一端としての個体、すなわち生命の通路としての個体について見ていくことが必要となる。ベルクソンの個体化論を検討する第二節で、われわれは「弾み」の遺伝というベルクソンに固有の遺伝論を見出すであろう。ただし、個体は「弾み」として捉えられる生命性のみを遺伝しているわけではない。ベルクソンにおいては、個体化が生命と物質のせめぎ合いとして考えられていることが重要である。第三節では個体論の観点から物質と生命の関係性を問い直し、通常生命の哲学者として読まれることが多いベルクソンの物質論もまた、注目に値することが示されるだろう。
 本発表を通して、Q. Maillassouxをはじめとする思弁的実在論 Speculative realismにおけるドゥルーズ再読のプログラム、あるいはJ. GayonやC. Malaterreといった生物学の哲学者(あるいはエピステモローグ)が問いに付す生命の定義 Definition of lifeという問題系に対して、何らかの示唆を与えることができるのではないかと思う。また、ベルクソン個体論という先行研究がほとんど存在しないプログラム全体を通じて、ベルクソン読解に新たな展望を与えることができると確信している。