発表題目:不登校経験者の体験記述を理解すること
—解釈学的現象学の議論を手がかりに—

満江 亮(山口大学)

 発表者は、かつて不登校を経験し、なおかつ精神疾患を抱えている若者たちによる或る自助グループと交流している。メンバーたちは4か月に1回会報を発行して互いに交流し合っている。会報には、詩やイラストなどを載せたりするほか、自分の不登校体験を記述して発表したり、精神保健に関する情報を掲載している。とくに、このグループの代表であるAさんは、毎号、膨大な量の記述を発表し続けており、彼女にとって会報は自分自身を表現できる重要な場となっていると思われる。
 このグループのメンバーには、リストカットなどの自傷行為を繰り返している(あるいは、かつて繰り返していた)者もいる。自傷行為の意図のひとつとして、自傷者の苦しみの身体的表現が挙げる専門家もある。そこで、自傷者へのケアの手段のひとつとして、自分の苦しみを言葉で表現することを勧められることがあり、このグループもそれを活動目的のひとつとしている。けれども、彼/彼女たちは、そもそも言葉にできないほどの苦しみを感じざるをえなかったのであり、それを表現する手段がないために、やむにやまれず自傷行為を行ったのではないのだろうか。彼/彼女たちの経験は、実は言葉では汲み尽くせないものなのではないか。その理由のひとつとして、Aさんが毎号記事を掲載するのは、一つの記事では自分の苦しみを表現しえないからであると考えられるからである。
 このように考えるならば、彼/彼女たちの記述の一つ一つには、言外に汲み尽くしえない苦しみが隠れているのだといえる。そして、読み手は、単にそれが存在することだけを知るのみである。だが、彼/彼女たちを理解するとは、書き手が表現し尽くせない、言外に隠された苦しみを理解することではないだろうか。それは、単にその苦しみの存在を認めるだけでなく、それがどれほどの苦しみであったのかを見出せることなのではないのか。
  では、それはどのようにして可能なのか。書き手が表現し尽くせない事柄を、読み手が理解するとはいったいどういうことか。また、それは、書き手としての主体性を尊重する行為であるのだろうか。本発表では、以上のような問いを挙げながら、不登校経験者による表現を理解するとはどういうことかについて考察していく。
  方法としては、発表者がAさんの記述を読みながら書き留めたメモをもとに、発表者による読書体験の考察をするという手法を用いる。その際、解釈学でよく用いられる「著者が自分自身を理解していた以上に彼をよりよく理解することが大切である」という命題についてのボルノウ(Otto Friedrich Bollnow, 1903-1991)の考察や、「ミメーシス」概念を用いて読書することの意味を解明しようとしたリクール(Paul Ricoeur, 1913-2005)の議論を手がかりにする。