発表題目:ニーチェ的パロディーにおける弁証法
―ニーチェ「プリンツ・フォーゲルフライの歌」読解―

山本 哲哉(大阪大学)

 本発表が取り扱うのは、ニーチェにおけるパロディーの問題、即ち、ニーチェにおけるパロディーの理論および実践という問題である。とはいえ、ニーチェに明示的なパロディーの体系的理論があるわけではない。あるのはただ、ニーチェによるパロディーの実践のみである。それにも拘らず、次のように問うことには意義がある。即ち、「ニーチェにおいてパロディーとは何であるか?」――というのも、彼は「パロディー」を、「悲劇」でもあるはずの彼の主著『ツァラトゥストラはこう言った』を指す言葉としてもまた使うからである。そしてまた一般的に言って、「パロディー」とは「悲劇」に対する二次的なある種の解釈のことであり、その意味で区別されている概念だからである。従って冒頭で取り上げた問は次のようになろう。即ち、「パロディーが悲劇に、また悲劇がパロディーに変容するということはいかにして可能であるか?」。本発表ではこの問を(限定された形で)、ニーチェによるパロディーの実践である、「プリンツ・フォーゲルフライの歌」(『喜ばしき知恵』第二版付録)を手がかりに取り扱う。なんとなればこの一連の歌に言及するときに、ニーチェは悲劇のパロディーへの変容をほのめかしてもいるからである(『喜ばしき知恵』序文、382番)。
 パロディーとはそもそも何かをもじったもの、何かをほのめかすものであり、その意味で何かに対する関係性を含んだ行為である。しかもパロディーは同時に、自分自身がパロディーであると、言い換えれば、自分自身が偽物であると告白する。つまりパロディーは、偽物として自身を提示しつつ、偽物に対する原型を提示している。しかもその際両者のあいだには相互関係が生じており、この相互関係による効果をパロディーは目指しているのである。
 パロディーに見られるこのような或る種の弁証法。ニーチェのパロディー実践においてそれは、いかなる形態をとっているのだろうか。「プリンツ・フォーゲルフライの歌」の分析により、我々はこの問いに答えることを目指す。発表を通して我々は、ニーチェのパロディーが、原型とその解釈との同時的提示が生み出す効果によって原型の意味合いを転じてしまう、このことを確認するだろう。一度この弁証法を経てしまったあとでは、パロディーがほのめかすのは、もはや元の原型からは全く変じてしまったあらたな原型である。いいかえればこのようなパロディーは、解釈の提示によるあらたなテキストの創出の試みなのである。こうした答えを、我々は冒頭で提示した問いに対する限定的な答えとして提示することになる。