発表題目:自由の不可能性論証と認識論的自由論

高崎 将平(東京大学)

 自由論は伝統的に、決定論と自由という二項対立図式の中で論じられてきた。しかし現在、問題はさらに錯綜をきわめていると言えるかもしれない。例えばヴァン・インワーゲンは、非決定論下においては行為の生起は「全くの偶然」であるから、自由は存在し得ない、と主張している。このことは従来の二項図式に加えて、非決定論と自由という対立図式も自由論において見逃せないということを示唆している。
 このような「自由対決定論」及び「自由対非決定論」という二重の二項対立を擁する問題圏においては、従来の「固い決定論」に加え、さらに自由を否定する立場が存在する。それは、「自由と決定論の両立可能性」と「自由と非決定論の両立可能性」の両方を否定する立場である(以下自由不可能説)。本発表は、自由を擁護する論者はいかにして自由不可能説に応答できるか、という問いから出発することになる。具体的には、自由不可能説の代表的な論者としてヴァン・インワーゲンを取り上げ、彼の議論を批判的に検討することになるだろう。
 さて、自由不可能説に対してはさまざまな観点からの応答が考えられるため、本発表がいかなる観点から自由不可能説にアプローチするのか、それを明確にする必要がある。そのためにもまず、自由不可能説の主張(以下自由の不可能性論証)を簡潔に定式化しておきたい。自由の不可能性論証は、その大まかな骨子としては以下のような形式をとる。
(1)世界は決定論的であるか非決定論的であるかのいずれかである。
(2)世界が決定論的であるならば、自由は存在し得ない。
(3)世界が非決定論的であるならば、自由は存在し得ない。
(4)(1)〜(3)より、自由は存在し得ない。
 この論証のどの部分を反駁するかは、論者の立場により異なる。例えば両立論者であれば、命題(2)の妥当性を否定することだろう。あるいは非両立説の立場から、命題(3)を否定する、すなわち非決定論的世界において自由を肯定するという試みも有力である。しかし第三の選択肢として、命題(1)の妥当性を吟味するという道も、我々に残されているように思われる。すなわち、「自由不可能説」を主張する論者が理解する意味での「決定論」と「非決定論」は、果たして排中律の事例を成しているのだろうか、と問うことは十分可能であるように思われるのである。私が本発表で採用する戦略は、まさにこの第三の道である。「決定論」と「非決定論」のはざまに自由を見出すことは果たして可能であるのか、また可能であるならばそれはいかにして可能であるのか。本発表ではこの問いに答えるために、チザムの「内在因果」説を検討することになるだろう。
 以上の考察を通じて、我々は命題(1)を肯定する論者(自由不可能説)も命題(1)を否定する論者も、「形而上学的飛躍」のジレンマに陥るさまを見ることになる。では、そのような困難を回避することは可能だろうか。私はこの問題に関して、自由と決定論の対立を認識論的なレベルで捉えることによって解決を試みたい。