発表題目:デリダと精神分析—デリダのラカン批判を中心に—

工藤 顕太(早稲田大学)

 「難解であり、メディアやアカデミー、あるいは出版界による平準化におよそ従順でないような思考、ディスクール、エクリチュールに対し、公然とオマージュを捧げること、私はそれを文化的レジスタンスであると考える」。これはデリダがラカンの仕事を評した言葉である。デリダはラカンを、ラカン派を、精神分析を批判している。そのような「対立関係」を声高に語る言説は珍しくないし、それは必ずしも間違ってはいない。ラカンとデリダの議論は、確かにある部分ではその拮抗を鮮明にしている。しかしそれでも、両者の関係はそれほど単純なものだろうか、と問うてみる余地はつねにある。デリダがラカンに捧げるオマージュについて多少なりとも真剣に考えるならば、性急で単純な図式化こそむしろ避けられるべきだろう。
 以上のような問題意識のもとで、本発表ではジャック・デリダの「真理の配達人」(Jacques Derrida,Le facteur de la vérité, in La carte postale, Flammarion, 1980)を取り上げる。このテクストでデリダは、ジャック・ラカンが自身のセミネールをもとに書き起こしたテクスト「『盗まれた手紙』についてのセミネール」(Jacques Lacan, Le séminaire sur «La lettre volée» , in Ecrits, Seuil, 1966)を批判的に読解している。したがって、「真理の配達人」を読解することは、デリダとともにラカンを読解することでもある。デリダはそこで、精神分析のテクストと文学のテクストの特異な交錯を暴き出しながら、言説、テクスト、レトリック、真理とフィクション、法、権力、セクシュアリティ等々、多岐にわたる論題を提起している。本発表は、「真理の配達人」を詳細に読解し、そこでなされている議論のポイントを明確化しながら、その射程を明らかにすることを試みる。
 上で列挙した問題群は、デリダの批判において、ある論点を介して緊密に結びついている。それは、ラカンが(「セミネール」における言説に限らず)その理論の中心的な概念装置として用いている<シニフィアン>の特権性である。ラカンは『盗まれた手紙』を、特権的な<シニフィアン>としての手紙が絶えず移動しながら、登場人物たちの欲望を組織化してゆく物語として解釈し、自身の理論の例示としている。そうしたラカンの言説において、<シニフィアン=手紙>は、真理とフィクションの錯綜関係を巧妙にくぐり抜けながら、象徴界の法を措定し、性分化の体制を布き、超越論的な特権を保持しているのではないか。この問いが、デリダをラカンのシニフィアン概念を脱構築することへと向かわせている。そしてその脱構築の帰結として、デリダはラカン的なシニフィアンに<散種>を対置するに至る。
 この議論を辿り直すことで、デリダの哲学と(主にフロイト・ラカンの)精神分析の間にある緊張関係の一端を示し、そこからラカンの<シニフィアン>概念を再検討することが、本発表の企図である。