「「〜にとっての良さ」について」
                           成田 和信(慶應義塾大学)

 哲学若手研究者フォーラムでメタ倫理学について話をしてほしいという依頼があったときに、正直言って引き受けるべきかどうか迷った。というのは、近年メタ倫理学は急速に発展し、さまざまな新しい説や議論が展開されているが、私はそれらに目配りをしているわけではないからである。だから、自分がメタ倫理学を語るにふさわしいかどうか、はなはだ疑わしいと思っている。ただ、メタ倫理学に関係していると思われる、ある問題が前から気になっていて、これを機会にその問題について多少なりとも勉強してみようという気になり、(聞く方にとっては迷惑かもしれないが)依頼を引き受けることにした。
 その問題とは、次のような問題である。私は最近、幸福(福利 well-being)に関心がある。幸福を考えるうえで私は、L.W. Sumner の Welfare, Happiness& Ethics (Oxford U.P., 1996) から多くを学んだ。Sumner によれば、「ある状態がある人にとって幸福な状態である」とは、「その状態がその人にとって良い状態である」ことを意味する。また、「あるものがある人の幸福に寄与する」とは、「それがその人にとって良いことをもたらす」ことに他ならない。このように Sumner は、幸福とは「〜にとって良い good for ~」(「〜」には特定の個人が入る)という価値によって特徴づけられると考えている。私もこの考えに共感を覚える。だが、そもそも「〜にとって良い」とはどのようなことなのであろうか。これが私の気になっている問題である。
 厄介なことに、最近になって私は、「〜にとって良い」という良さなど存在しないと主張する人たちがいることに気がついた。彼らによれば、存在するのは「端的に(絶対的に)良い simply (absolutely) good」という良さだけであって、これとは区別される「〜にとって良い」という(個人相対的な)良さなどない、というわけである。だから、「〜にとって良い」とはどのようなことなのか、という問題を考える前に、そもそもそのような良さは存在するのか、という問題も考えなければならない。つまり、考えるべき問題は二つある。

 (1)「〜にとって良い」という良さは存在するのか。
 (2)「〜にとって良い」とは、どのようなことなのか。

 問題(1)に対して否定的な答えを出している代表者は G. E. Moore である。彼がその答えを述べている一節は、何を言いたいのか正確に理解することは難しいが、その一部を引用してみよう。

では、「私自身の良さ my own good」によって何が意味されているのであろうか。どのような意味で、あるものが私にとって良い good for me ことが可能なのであろうか。考えてみれば、私に属しえるもの、私のもの mine になりえるものは、良いもの something which is good だけであって、そのものが良いという事実 the fact that it is good ではない、ということは明らかである。したがって、私が獲得しているものを「私自身の良さ」として私が語るとき、私は、私が獲得しているものが良いということか、あるいは、私がそれを所有していることが良いということかのどちらかを意味しているにちがいない。いずれの場合にも、私のもの mine であるのは、そのものか、そのものを私が所有していることだけであって、そのものの良さ goodness やそのものの所有の良さではない。(Principia Ethica, Sec. 59)


 ここで Moore が「私自身の」とか「私の」と言っていることが「私にとっての」ということであると解釈できるのであれば、彼がここで言いたいのは、おそらく、「私にとって」と言えるのは、良いとされている対象か、あるいは、その対象を私が所有しているという事実であって、その対象の良さやその対象の私による所有の良さではない、ということであろう。つまり、良さについては「私にとって」とは言えない、ということであろう。しかし、どうして、良さについて「私にとって」とは言えないのであろうか。この点に関して Moore は十分な説明をしていないように思われる。だが、最近になって Donald H. Regan が、この Moore の考えを補強する議論を提示している。彼は、「p にとっての良さ」は、それが「良さ」であるかぎり p 以外の人に対して規範性をもつはずであるが、「p にとって」という限定がつくかぎり p 以外の人に対する規範性をもちえない、という矛盾をはらんだものであることを根拠に、その存在を否定している (“Why Am I My Brother’s Keeper?” in Reason and Value, ed. by Wallace, R. Jay, Pettit Philip, Scheffler Samuel, and Michael Smith, Oxford U.P., 2006)。
 問題(2)に対しては、さまざま答えがあるのかもしれないが、私が知っているのは、良さに関する「適切な態度による分析 fitting-attitude analysis」とか「責任転嫁分析 buck-passing analysis」と呼ばれるモデルを使って Toni Ronnow-Rasmussen が提出している答えである。その答えとは、「x が人 p にとって良い」とは「p のために for p’s sake、x に対して肯定的な態度を向ける理由がある」ということに他ならない、という答えである(Personal Value, Oxford U.P., 2011)。Stephen Darwall も、福利を語る文脈で、同じような答え提出している (Welfare and Rational Care, Princeton U.P., 2002)。
 フォーラムでは、問題(1)と問題(2)の両方について話ができればよいと思っている。問題(1)に対しては、私は肯定的な答えを出したいが、それを擁護する議論をもちあわせているわけではない。とりあえずは、Regan の議論を批判的に吟味することで、擁護の糸口を見つけたい。また、問題(2)については、Ronnow-Rasmussen の答えを検討することによって、何が言えるかを考えてみたい。とは言え、今のところこれと言った見通しがあるわけではないので、7 月までに、まともな話ができるくらい準備を整えることができるかどうか、はなはだあやしい。これらの問題を扱った最近の著作をいくつか紹介することで終わってしまうかもしれない。