「なぜ私は実在論者にならないのか?」

                         高橋 久一郎(千葉大学)

 私の個人的な事情などはどうでもいいことではあるのですが、ここではちょっとだけメタ倫理の問題についての私の状況というか姿勢を述べて、集会での私の話の導入としたいと思います。

 岩波の「応用倫理講座」で規範倫理の話ではなく、倫理学の社会的位置づけといったことも含めた広い意味での「メタ倫理」をも扱ったために「メタ倫理」ということで話せというお話をいただいたのだと思います。
「広い意味でのメタ倫理」という言い方をしましたが、いわゆる「メタ倫理の標準的な広がり」については、Moral Realism: A Defence (Oxford UP) (2003) によって「メタ倫理学」の有力な論者として登場した R. Shafer-Landau の編集した Metaethics, 4 vols, Critical Concepts in Philosophy (RKP) (2008)、そして同じ編者により 2006 年から毎年刊行されている Oxford Studies in Metaethics (Oxford UP) が、まあ、やや偏りはあるものの、欧米における「メタ倫理」をめぐる議論の現状をほぼ示していると言っていいように思います。
 前者はムーアの『倫理学原理』(1903) から始まってマードックの『善の至高性』(1970) までを、いわば「前史」として、「道徳的実在の本性」についての現在における有力な「メタ倫理」理論として「錯誤理論」「表出主義」「構成主義」「実在論」をあげ、その主要な論考を示し、さらに道徳にかかわる「不一致」「付随性」「意味論」「説明」「認識論」「権威」、そして「規範性」「理由と動機」といったテーマ別に論争点を整理した論集です。後者は Shafer-Landau の属するウィスコンシン大学において 2004 年以来毎年開催されている「メタ倫理」のワークショップの内容を中心に刊行され、現在のメタ倫理の議論の展開を示しています。これらの議論のすべてをフォローしているわけではありませんが、中心となる問題は、やはり存在論にかかわる問題であり、その問いに対してどのように問うかがメタ倫理の核をなしていると思います。
 メタ倫理の現状についてのガイド的なことを書きましたが、それは、今、私が今回の発表では、その中核にある存在論に関わる問いを直接に問うのではなく、「規範性とは何か」と問うことを通じて語ってみたいと思っているためです。というのも,規範性の理解については、その広がりから特徴づけをめぐってさまざまな考え方があって、存在論の問題とも直接的に過ぎない程度に緊密にかかわっているために、この問題を通じて存在論について語るのが「よい」方法と思っているからです。
 私は、先の講座において存在論的には「「表出主義」と呼ばれている立場に立ちたい」と書きました。しかし、Blackburn や Gibbard (さらには Hogan, T. や Timmons, M. や Dreier, J.)などの試みを参照することで、表出主義をさまざまな批判から守ることはできても、いかにもバロック的に込み入り簡明さに欠け、他方では、実在論を明確に否定する議論を構成できないことから、その後の哲学会大会 (2007) において、「さしあたり撤回する」と述べました。にもかかわらず、私は実在論にコミットしようとはしていません。
 このコミットしようとはしていないという「感覚」について述べましょう。実は未だ読んでいないのですが、Taking Morality Seriously: A Defense of Robust Realism (Oxford UP) (2011) の著者である Enoch, D. は、規範的事実に因果的な効力をも認める Oddie, G. のような論者を別にすれば、かなりハードな実在論の論者だと思います。その著作の一部をなしていると思われる、先の論集にどちらにも収録された論文の中で、「哲学においては結論ではなく議論が重要である」ということを強調し、自らの議論が失敗しているならば、実在論を支持する別の議論を探るよりも、むしろ、実在論を捨てるという潔い姿勢を仄めかしています。この姿勢の背景にあるのは、理論的には、自然科学において「説明において」数学が不可欠であるのと類比的に、「規範的真理は、ことがらの生起の説明においてではないとしても、私たちの行為の決定にかかわる「熟慮において」不可欠である」という議論への信頼です。しかし、私には、議論としては、「熟慮において不可欠である」とされる規範的真理を実在論的に理解しなければならないようには思われません。彼の姿勢を本当に支えているのは、むしろ、彼の別の論文のポイントとなっていることですが、「道徳を本気で考える」ならば、規範倫理の問題においては実在論にコミットしないわけにはいかないという(それはまた「正しい」メタ倫理は規範倫理との関わりで中立的ではありえないという感覚とも結びついている)「感覚」のように思われるのです。
 しかし、ここで「感覚」が分かれます。ここでの「感覚」は、おそらくはアリストテレス以来の「理性」の働きを受け継いだ「直観」、あるいは、「理性」といった意味合いを落としながら直接的に何らか実在にかかわる「直感」というのでもなく、まあ、やや大げさな言い方をすれば、ソクラテスのいう「デーモン」の声のようなものかもしれません。この「感覚」のために、私は、規範倫理における姿勢においては明確に実在論的でありながら、いわゆる「メタレベルの議論」のレベルで言えば、ある種の実在論の議論の明確さを認めながらもコミットできず、宙づりの状態にあり、何らか「分裂症」的なあり方をしています。そして、このようであるということがまた、議論の上では、実在論に立つことを促すことになると思われるのですが、しかし、このことは再び「議論」のレベルでの話しでしかないように私に感じられてならないのです。

 そんなこんなで腰の据わらない話ですが、集会のおりには、こうした事情を背景に、規範性ということをどのように考えるかという観点から、倫理における実在論と反実在論の問題について、話をしたいと思っています。