ニーチェにおける「生の問題」――『反時代的考察』におけるショーペンハウアーとヴァーグナー

山本 哲哉(大阪大学)

 プロイセン・ザクセンの地で、プロテスタント牧師の家に長男として生まれたフリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844-1900)、彼がキリスト教を中心とする道徳、当時のドイツ文化、芸術、科学および哲学に対して激しい批判を加え、また「生に対する最も重い」思想である「等しきものの永劫回帰」を主著『ツァラトゥストラはかく語りき』で展開していることは有名であろう。ニーチェによる批判はおおよそ彼の手になるすべての著作においてなされているのだが、批判する際のニーチェ自身の立場は一見して明らかにアンビヴァレントであるように思われる。また「永劫回帰」をはじめとする「超人」、「権力への意志」などといった彼の根本思想は様々な仕方で誤解を生じ易く、しばしば解釈上の混乱を招いている。そういったわけで、人は哲学者ニーチェについて多くのことを聞き知っていながらも、哲学的に取り扱うという際には、しばしばある種のためらいを感じてしまう。
 またニーチェは、思想的な一貫性を見出すことが困難な哲学者でもある。有名な例を挙げるならば、ショーペンハウアーとヴァーグナーに対する崇拝と言っていいほどの傾倒から徹底的な批判への転向、自由意志に対する強い否定と「権力への意志」という思想、あるいは「永劫回帰」という思想と未来に対する彼の強い志向などである。このことから我々の内に、ニーチェに一貫した主たる問題意識やそれに関する思索を見出すことなどできず体系として破綻しているのであって、つまり彼はただその時々の自分の立場から自身を正当化しているにすぎないのではないか、という疑念が直ちに生じるかもしれない。しかしながら、このようなニーチェの思想的な多義性にもかかわらず、我々は彼の内なる一貫性を認めうるのである――途方もない多様性を備えた自然にあっても統一的な視点としての科学を志向しうるように、そもそも多義性と統一性とは必ずしも矛盾し破綻をきたすものではない。
 ではニーチェに見出しうる一貫性とは一体何か、これが本稿の第一の主題となる。我々は、「この私とは何者であるか」、という生の問題にニーチェが「生成」と「存在」との関係を手がかりに取り組んでいるということを、彼の著作、遺稿、書簡から確認していく。そしてニーチェが一貫して取り組む問題は次のように言われるだろう: 今「存在」している「私」とはどのようにして「生成」してきたのか、またそうであるところの「私」にいかにして「私」はなるのか。
 本稿では第二の主題として、この問題が明示的に扱われる最初の著作である『反時代的考察』という著作に注目し、いかにこの問題にニーチェが取り組んでいるかをみていく。具体的には、我々は第三篇「教育者としてのショーペンハウアー」と第四篇「バイロイトにおけるリヒャルト・ヴァーグナー」とを取り上げ、ショーペンハウアーとヴァーグナーという生の「典型」をニーチェが生の問題に取り組むにあたっていかに必要としていたのか、またそれらを手がかりにニーチェがいかに生の問題に取り組むのか、をみていく。なお、本稿はニーチェは一体いかなる問題に取り組んだのか」という問いに対する応答となっており、この問は「ニーチェにおける「等しきものの永劫回帰」の意義とは何か」という問いに対する予備的なものであるが、後者の問いについては扱わない。