倫理的問題について論争するとはどういうことか?

神原 喬(北海道大学)

 われわれは倫理的問題について論争する。これは、われわれの常識的な道徳理解における明白な事実のひとつであるように思われる。たとえば、太郎が「妊娠22週未満の胎児の人工妊娠中絶は道徳的に正しい」と述べ、花子は「そのような医療措置は道徳的に不正である」と述べるとき、この2人は人工妊娠中絶が道徳的に正しいか否かという問題をめぐって確かに意見を異にしていると考えられるのである。彼らはもしそう望めば次いで、自分たちの言い分を述べ合い、議論を交わし、そして当の問題に対する賛否の結論を下すことだろう。われわれの社会生活において度々見られるこの光景に何ら不明朗なところはない。
 だが、倫理的論争に関するこうしたわれわれの常識的な理解は本当に正しいのだろうか。われわれは倫理的問題について論争しているように見えてその実、全く「論争」――当事者たちの間で意見の不一致があり、それを解消しようとしているという意味において――していないのではなかろうか。「いやそんなはずはない。そう言い張る者は、われわれが倫理的論争を現に行っているという事実を誤認しているか意図的に歪めているかのいずれかである」と言って、多くの人はこの懐疑的な異論を一蹴するかもしれない。けれども実際、この到底妥当であるとは信じ難い異論をめぐって、20世紀の英米倫理学では活発な議論の応酬がなされてきたのである。
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 本発表の目的は、第1に、このような倫理的論争の営みをめぐる議論の展開を跡づけ、その当否を検討することである。具体的には、(1)主観主義者、(2)G. E. ムーア、(3)A. J. エイヤー、(4)C. L. スティーブンソンという4人のメタ倫理学者たちの立場を取り上げ、ムーアの主観主義に対する批判、およびこのムーアの批判に対するエイヤーとスティーブンソンからの応答を概見し評価する。
 本発表の第2の目的は、以上の作業を手がかりにして、倫理的論争の本性を明らかにすることである。ここではとくに、認知主義者(主観主義者・ムーア)と非認知主義者(エイヤー・スティーブンソン)との両陣営の間で〈倫理的問題について論争するとはどういうことか〉という問題に対する答え方が根本的に異なる、という点を指摘する。またこれに付随して、倫理的論争を解決するための方法や倫理学という学問の本性について、上記の論者たちがそれぞれどのように考えていたのかも明らかにしたい。
 なお、紙幅・時間が許せば、博士論文や初期の論考において倫理的論争の本性を解明することよりも倫理的問題を解決することこそが倫理学者の本分であると力説したジョン・ロールズの立場や、メタ倫理学理論はどれほど道徳性に関するわれわれの常識的な理解と一致するべきかという理論構築(メタ倫理学における反省的均衡)の問題についても簡単に論じたい。