自由意志の否定と倫理学—『エチカ』第4部読解—

小田 裕二朗(大阪大学)

 スピノザが『エチカ』において人間の自由意志を否定したことはよく知られている。精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない」(『エチカ』第2部定理48)、「精神の自由な決意で話をしたり、黙っていたりその他いろいろなことを為すと信じる者は、目をあけながら夢を見ているのである」(『エチカ』第3部定理2備考)など、スピノザによる自由意志の否定は、『エチカ』の至るところに見受けられる。ところがその一方で、『幾何学的秩序によって論証された倫理学』というタイトルに示される通り、『エチカ』は倫理学についての著作である。しかし、前述の通り自由意志を否定したうえでの倫理学はいかにして可能なのだろうか。スピノザの生前においても、この問題はチルンハウスによって「我々が外的事物によって強制されるとしたら、誰が徳の習性を獲得しうるでしょう」(書簡57)と批判されている。自由意志を否定したうえでスピノザはいかにして倫理学を構築するのか、そしていかなる倫理学を構築するのか、これらがまず提起される問題である。
 『エチカ』が倫理学の領域に入るのは第4部からである。その第4部の序言では、完全性、そして倫理学の基礎的概念となる善悪について述べられているが、スピノザは完全性及び善悪を事物の実在的な性質ではなく、我々が事物を相互比較することによって形成される概念にすぎないとする。しかしスピノザは同じ序文で、これらの言葉を保存しておくのは有意義であると述べる。「なぜなら、我々は、眺めるべき人間本性の型(naturae humanae exemplar, quod intueamur)として、人間の観念を形成することを欲している」(『エチカ』第4部序言)のであるから。そして、この「人間本性の型」という概念を用いてスピノザは完全性と善悪を以下のように定義しなおす。

善:「人間本性の型」に近づく手段となると我々が確知するもの。
悪:「人間本性の型」と一致するようになるのを妨げると我々が確知するもの。
完全性:「人間本性の型」により多くあるいはより少なく近づく限りにおいて、より完全、あるいはより不完全と言われる。

 スピノザはこの概念の導入によって倫理学の用語を復活させ、倫理学を構築しはじめる。従って、スピノザは『エチカ』においてこの「人間本性の型」という概念を導入することによって自由意志を否定したうえでの倫理学を構築していると言える。
 本発表ではこの「人間本性の型」という概念の分析を通して、スピノザの倫理学をその構築から考察し、いかなる倫理学を構築したのかを検討していく。そこではスピノザの倫理学にはなぜ「〜〜すべし(ought to)」という命法が用いられないのかということについても明らかにされるであろう。