「論理学/数学の哲学における概念分析は、形而上学の動態化にどう寄与しうるか」
  −−〈遷移構造の意味理論〉の現況と今後を瞥見する
                         岡本 賢吾(首都大学東京)

 [はじめに] 今回、論理学の哲学/数学の哲学に関するテーマ・レクチャーの機会を与えて頂けるということですので、私としては、いま自分でも一番関心を持っている上記のような主題について論じてみたいと思います。すなわち、もう少し詳しく述べると、論理学の哲学/数学の哲学における近年の最も代表的な一展開と評することのできる、いわゆる「Applied Logic」の流れ(その中でも特に、「クリプキ構造」、あるいはその一般化である「遷移構造 transition structure」を主題に据え、その「意味理論的分析」とも呼ぶことができるような詳細で多様な考察を行っている流れ)を取り上げ、こうした分析が、狭義における論理学的/数学的な概念・構造の研究の範囲を超えて、もっと一般的な形而上学的研究(特に、状態・作用・出来事などの間の区別と相関、動的変化、時空的諸関係、等の取り扱い)に対して、どのような有効な洞察を現にもたらしつつあるか、今後さらにもたらすと期待できるか、という点を検討するつもりです。様相(特に時間)論理、位相空間、余代数、圏論などについての若干の(ごく基本的な)技術的事項を取り上げることになると思いますが、原則として予備知識を仮定せず聞いてもらえるよう配慮しますので、論理学・数学をめぐる諸問題のみならず、様相・時空・出来事・作用・連続性・変化などに関わる形而上学的諸問題に関心を持つ方々に広く参加して頂ければ、と考えています。
 ところで、以下この予稿では、いま略述したテーマの前提となるような、もっと一般的な問題――すなわち、論理学の哲学/数学の哲学は、そもそも何を主題とし、また目標とするのか――について少しだけ考察したいと思います。というのは、私の周囲にいる学生・院生・OD等の人たちにも当てはまると感じるのですが、一般に近年の若手の哲学研究者にとって、論理学の哲学/数学の哲学というジャンル(と言うか、まあ領域とか分野)は決して広範な人々に自然に受け入れられうるものでなく、むしろ、特定の人だけが関心を寄せる少々趣味的なもの、もっとはっきり言って、過度に専門性の高い衒学的(?)領域として捉えられているように思えるからです。以下に述べる通り、これは確かに無理からぬところがありますが、しかしそれでもこの哲学は、(身びいきだと言われそうですが)やはり他所では簡単には得られない貴重な洞察をもたらしうる基礎的一分野として評価してよいように思います。そこで、なぜそうだと私が考えるかを説明してみますので、皆さんにもご検討頂き、当日やあるいは他の適当な折りにご意見を伺えれば、と思います。
 
 論理学の哲学/数学の哲学が、通常の哲学的探究とはどこか異質な衒学的営みに見えがちなのは、一つには、この哲学が技術的道具立てで“武装”し、予備知識を持たない人を遠ざけがちであるためであろう。しかしむしろ、より本質的な理由は次の点にあるように思われる。現在、論理学・数学の理論発展はますます急速化し、その内容面での抽象化・複雑化の度合いもますます高まっていて、これらの科学に多少でも関心を持つ人は、その理解・習得のために決して軽くない労力を費やすよう強いられている。とりわけ専門家の場合は、ほとんどその認知能力の限界を超えるほどの理論習得を求められ、しかもそれでも必ずしも及ばず、結果として、長年これらの科学に従事してきた人であっても(もちろん様々の例外的ケースはあるにせよ)個々人単位では局所的な諸事項に通暁するのがやっとで、それを超えた論理学・数学についてのトータルな見通しといったものは、十分に獲得できないで終わってしまうのがほぼ当たり前になりつつある。
 ところで、論理学の哲学/数学の哲学が目指しているのは、ある意味でまさにそうした「トータルな見通しを持つ」という不可能事そのものだと言えよう。というのもそれは、論理学・数学について、その全体像を把握するために不可欠な幾多の要因を見渡すこと、そしてそうした知識を駆使して、これらの科学が教えることは何であるのかを解明し、とりわけ、これらの科学が認識論的に正当化される(真理の――あるいは少なくとも十分信頼して適用しうる諸命題の――体系として保証されうる)のはなぜ、いかにしてであるかを説明しようとするからである。だがそうなると、それが目指す目標は、科学の素人である一般の哲学者では容易に達成できないのはもちろん、科学の専門家でさえもおそらく遂行できない非現実的なもの、つまり、ほとんど叶わない夢想、いわばドン・キホーテ的な所業(?)といったものに他ならないことになるだろう。
 以上の問題は、実際に、論理学の哲学/数学の哲学が直面するシリアスな難問の一つであると思われる。例えば、いまも言及した〈論理学/数学の真理性の基礎付け・正当化〉について考えてみよう。この課題自体は古くからある馴染み深いものだが、しかし現在、これを掘り下げて究明しようとすると、どれくらいの情報を参照することが必要となる(あるいは少なくとも望ましい)だろうか。論理学・数学の膨大な発展を踏まえれば、そうした情報は、それだけで優に一人の人間が(あるいは数人の人間でさえ)カバーできる範囲を超え出てしまうことだろう。要するにこの作業は、教養ある一人または少数の人物が担いうるような営みとしての性格をおそらく既に失ってしまっている(これは例えば、フレーゲやラッセル、あるいはブラウワーとヒルベルト、それどころかゲーデルやゲンツェンの時代でさえ考えられなかったところだろう)。だが他方、だからと言って、多数のエージェント(コンピュータも含む)による「分業」によってこの課題の遂行を進めようとしても、実は決して容易ではないだろう。なぜなら分業の前提として、例えば〈真理性の基礎付け〉という、単にインフォーマルであるのみならず甚だしく陰伏的で未分化な諸概念を含んで出来上がっていると考えられる理念について、必要な範囲でその精確な成立基準、適正な実行手順といったものを――独力、または少数者の協力で――与えることが必要となるだろうからである(そもそも〈基礎付け〉なる課題が遂行可能なのかどうかといった問題もあるが、ここではそれは問わないでおく)。そしてそのためには、基礎付けそのものを遂行するのと大差ないほどの多様な情報の処理が求められることになろう。 あるいはこう考えてもよい。現代の科学研究の体制は、ある意味で、既に〈多数のエージェントによる分業〉を実現し、推進しつつある。だが、そのような体制下にありながら、〈真理性の基礎付け〉のような課題に関して、私たちは顕著な進歩を遂げたわけでは決してない。これはつまり、分業という手法が、それだけで直ちに、従前のような一人または少数の教養ある人間の手による課題の遂行に取って代わりうるような有力な手法ではないことを物語っていよう。
 というわけで、「トータルな見通しを得る」という課題を実現するためにどうするのがよいのかは、いまのところほとんど不明である(機会を改めて検討したい)。しかし同時に以上の考察は、論理学の哲学/数学の哲学が果たしうる役割とは何であるのかについて一定の示唆を与えていると考えられる。すなわちその役割とは、まず第一に、先に浮上したような、インフォーマルで陰伏的かつ未分化な基礎的諸概念の分析、ということである。誤解が生じないように補っておくと、この作業が一人また少数でやらざるをえないものであることを以て「哲学的」であると言おうとしているわけではない(人数の問題はここではどうでもよいことである)。そうではなく、論理学・数学の膨大な発展により、もはやその全貌を把握して典型的な「哲学的思索」を展開しうるような突出した個人の存在がほとんど期待できなくなったとしても、それとともに、興味ある意味合いで「哲学的」と特徴付けうるような営み自体が消え去ってしまったわけではなく、まさに、インフォーマルな基礎概念の分析といった重要な作業の形で、確かにそれは残り続け、その意義はかえって増大してさえいるだろう、というのがここでのポイントである。もちろんこのとき、この概念分析のような「哲学的」作業を担うのは、必ずしも狭義の「哲学者」であるわけではなく、たいていの場合は、専門の論理学者・数学者であるだろう。だが、それが「哲学者」に分類される人であるかそうでないかという点自体は、さして興味のない話である(もう一言補えば、もちろん「哲学者」の側が当の作業を担うケースも想定できないわけではないだろう)。そうではなく、重要なのは、この作業が、例えば、確立済みの研究プログラム中に位置づけられた一要素としてシステマティックに遂行されうる典型的な「科学的」作業とは異なり、むしろその手前に位置する、文字通り陰伏的で未分化な――おそらく私たちの言語活動の一般的基盤に属すると言ってよいような――概念的要素の明示化の営みとして、「哲学的」と特徴付けるにふさわしいものだということである。
 というわけで、論理学・数学の膨大な発展の中で、語の優れた意味で「論理学の哲学/数学の哲学の役割」と言えるような作業は決して消えず、むしろ一見目立たないながら、専門の科学者までが積極的にそこに参与することを求められる基礎的な作業として存続し続けると考えられる。併せて言えば、こうした作業の意義そのものを焦点化し顕揚する営みとしても、論理学の哲学/数学の哲学は独自の機能を保ち続けると見なしてよいだろう。これらが、筆者の見るこの哲学の第一の役割に他ならない。
 さらに第二に、もはや冗長になりすぎたので一言で終えるが、論理学の哲学/数学の哲学が、特に他の哲学の分野との対比で持つ固有の役割としては、次の点を挙げてよいと思われる。すなわちこの哲学は、論理的・数学的な構造という、(例えば、通常の知覚体験を通して接近可能な諸対象・諸性質・諸構造とはまったく異なった種類の)独自の主題領域への接近可能性を与える、ということである。このように述べると、そうした独自の構造の存在を認めることは、直ちにいわゆるプラトニズムを含意し、現代形而上学の一つの基本動向である自然主義に反することになる、といった批判や疑念が寄せられるかもしれない。しかしながらこれは浅薄な考えと言うべきであって、論理的・数学的構造が、知覚可能な対象・性質・構造とは明別されるべき独自の考察主題を為すことを強調したからといって、直ちにプラトニズムや反自然主義といったものが帰結するわけではないし(もちろん、ではその存在をどう説明するのかという問題は残っており、これについては今回のレクチャーである程度立ち入って検討するつもりである)、それどころか、例えば物理学の理論はまさに論理的・数学的な構造に依拠することなしには展開できない以上、まともな自然主義の形而上学を構想するのであれば、むしろ、単なる知覚可能な対象・性質・構造とは明別される論理的・数学的構造についての本格的な形而上学的分析がぜひとも必要とされると言わねばならない。――というわけで、この第二の点についてはさらにレクチャーの場で補足することをお約束し、とりあえず、論理的・数学的構造への接近路を与えるという点に論理学の哲学/数学の哲学の独自の機能があることをもう一度強調したところで、この予稿をひとまず締めくくることにしたい。