特殊な次善の行為としての自己犠牲--田村論文批判--

矢口 裕一(名古屋大学)

 本稿の目的は自己犠牲的行為についての田村の議論を分析し、それに代わる枠組みを提案することである。田村が挙げる自己犠牲的行為の例は「一人の女性が、親戚の老人たちの世話をするために、自らの結婚とキャリアを犠牲にした」というものである。
 田村(1997)は、ある行為を自己犠牲的行為であると呼ぶための必要十分条件として三つの条件を挙げている。
 条件1 行為者が、両立しえない二つの価値基準を持っていて、その統合がなされない。
 条件2 行為者が、行為の行なわれる状況について十分な知識を持っている。
 条件3 行為が、社会的な圧力の下で遂行され、公共的基準に従った選択が行なわれている。
 また、田村(2010)は自己犠牲的行為の分析にあたって、三つの仮説的回答を与えながら分析を行なっている。三つの仮説的回答とは、第一に自己犠牲的行為など存在しない、第二に自己犠牲は不合理な行為である、第三に自己犠牲は本気で決意する主体としての個人の行為ではない、という三つを言う。この三つの回答を分析した後で、田村は自己犠牲的行為をゴッコ遊びの決定のもとでなされる行為であると結論づける。
 しかし、この三つの回答の分類法は妥当でない。自己犠牲的行為をゴッコ遊びと捉えるのも問題がある。また、田村の理論は自己犠牲的行為の存在を自明に認めすぎているし、事実分析と規範分析がないまぜになった価値内在的な理論でもある。合理的行為との関係において自己犠牲的行為を位置づけるべきである。
 自己犠牲的行為を分析するためには、価値中立的な規範理論を通じて、自己犠牲的行為を人々の期待という特殊な現実的制約のある場合に成り立つ次善の行為として捉えるという枠組みが必要である。この枠組みによれば、自己犠牲的行為は現実的で合理的な行為という評価が与えられる一方、人々の期待という特殊な制約を取り除くことで人々の行動の幅を広げることができるという含意が示される。
 次善の選択に該当するための条件として、自説では以下の二つを挙げる。
 条件1 行為者本人に帰することのできる理由のためではなく、私的価値に対立する公的価値のような行為者の行動を制約する現実的制約のために、行為者が実際に当該行為を選択すること
 条件2 現実には成立していなかったものの、ありえた理想的条件の下であれば、行為者は当該行動をしなくて済んだはずであること
 本稿の考察は、自己犠牲的行為を人間の行為を合理的と想定する学問体系のなかに切れ目なく導入し、より多くの人間の行為を合理的に説明することを可能にするだろう。
 
 参考文献
 田村均(1997)「自己犠牲の倫理学的分析」『名古屋大学文学部研究論集』129(哲学43)、pp. 37-64。
 田村均(2010)「自己犠牲的行為の説明--行為の演技論的分析への序論--」『哲学』61、pp. 261-276。