人の同一性について

俵 邦昭(千葉大学)

 人の通時的な同一性の問いとは、人の通時的同一性の規準とは何か、より一般的には、「ある時点t1における人xと、ある時点t2における人yが同一である」ということの、トリビアルでない必要十分条件とは何か、という問題であるといわれる。人の同一性に関する現代の主要な立場、心理説や身体説は、心理的連続性や身体の時空的な連続性こそが人の持続についての必要十分条件であると主張する。このように人の通時的な同一性に関して規準が存在すると考える立場を規準主義と呼ぼう。規準主義は、人の通時的同一性は連続性のような同一性以外の概念によって分析可能であり、それによって必要十分条件が与えられると考える立場である。
 人の通時的同一性についての問いは、なにかしら規準が存在するということを前提として探求がなされてきたという経緯がある。しかし一方で、心理説や身体説とは異なる第三の立場、人の通時的同一性についてそのような規準が存在しない、と考える立場が存在する。このような立場を無規準主義と呼ぼう。人の通時的同一性に関する無規準主義によると、人の同一性は単純な概念である。人の同一性は他の概念、例えば心理的な連続性といったものによっては分析され得ない。少なくとも同一性を前提とせずには、つまりはトリビアルであったり、循環的になったりすることなしには、人の同一性についての規準を与えることはできないと考える。つまり、無規準主義にとって人の同一性とは原始的な概念なのである。
 無規準主義によると、規準主義の提出する規準は認識論的な規準にすぎない。例えば、ある人がある体験を記憶しているということは、想起主体と、想起された体験の主体が同一であると考えるためのよい証拠である。しかしそのことが人の同一性の必要十分条件であるわけではない。人が通時的に同一であるということは、まさに同一であるというそれ以上分析不可能なものとして受け入れられなければならない。つまり無規準主義によれば、人の同一性の規準に関する探究とはすべて認識論的な問題であり、存在論的な問題ではなかったのだということになるのである。
 無規準主義は、バトラー、リードに源泉をもち、スウィンバーンやチザムによって擁護されてきた。しかしながら現代においては、この立場はほとんどまともな注意をむけられていないように思える。本発表では、主に人と日常的対象の持続に関するチザムの考えを詳細に検討することによって、無規準主義が擁護可能であるということを示したい。