デカルトにおける「能動-受動」概念の役割について

野々村 梓(大阪大学)

 L・ブランシュヴィックは『人間の経験と物理的因果性』(1949)の中で、デカルトにおける機械論的因果性が「厳密な意味での」自然学の領域を越え、生命現象や感覚といった現象が「純粋機械学」の原理に依拠して合理的に説明されていることを指摘している。他方で、デカルトは1643年のエリザベト宛書簡において、我々は思考の概念と延長の概念に加えて、精神と身体の合一についての「原始的概念notions primitives」をもっていて、この概念に精神と身体の間で働く力(感情や情念の原因となる)の概念が依存していると述べる。そして、思考、延長、心身合一という三つの概念を相互に他のものによって説明するべきでないと注意を促している。そうだとすると、心身合一の次元で生じる現象(感覚など)を思考の概念と延長の概念によって説明することは、いかにして正当化されうるのか。先行研究が明らかにしてきたように、たしかに松果腺仮説に代表されるデカルトの生理学は、日常的な生の(心身合一の)領域にとって外的な説明でしかなく、その領域は理論的な次元から截然と区別されなければならない。しかし、それでも生理学が我々の心身合一の経験の説明になっていることに変わりはない。デカルト哲学において、このような領域横断的な企図の基盤としての「能動-受動」概念の内実・役割を明らかにすることが本発表の目的である。
 第一章では、デカルトの『人間論』(1632-1633)と『掲貼文書への覚え書』(1648)をテキストとして取り上げ、精神と身体の相互作用が機会原因論的な表現によって記述されているにもかかわらず、一貫して精神と身体の直接的な相互作用が認められていることを確認する。これらテキストにおいて重要なのは、精神と身体という二つの領域で生じることを相関的に記述することが、因果的相互作用によって説明していることにもなっている、ということである。本発表はデカルトの『情念論』(1649)の第一部第一項に見出される「能動-受動」概念を、心身合一に由来する現象を精神と身体の因果的相互作用として説明することの概念的基盤、あるいはそうした説明を正当化する根拠として提示するものである。ところで、デカルトは『情念論』において、「能動と受動は同じひとつの事がらである」と述べる。第二章では、この「同じひとつの事がら」という表現を巡っていくつかの解釈を批判的に検討する。論点は二つある。1/ 「同じひとつの事がら」ということで、思考と延長に共通な何らかの様態が出現しているのではない。デカルトの二元論の枠組みを維持しえないからである。2/ 「同じひとつの事がら」という事態は心身合一の経験に依存するものではない。その経験が精神と身体の因果的相互作用によって説明することの必然性がなくなるように思われるからである。第三章では、前章の検討をふまえ、デカルトの「能動-受動」概念の特徴を以下のように取り出す。すなわち、能動と受動は概念的かつ同時的に連結されており、この概念は能動者-受動者の両項が何であるかにはまったく無関係に適用され、したがって、一種の公理として理解されるものである。さらに、それは単に概念的な関係であるにとどまらず、「原因-結果」としての作出因果的な関係を含意する。「能動-受動」概念のこうした諸特徴によって、心身合一に由来する現象を精神(思考)と身体(延長)の二つの領域に分節し、両者の「相関関係の記述」-しかも、二項間の実効的因果性を排除することなく-として説明することが可能になっているのである。