日本語における記述について

和泉悠(メリーランド大学)

 本発表は二つの目的をもつ.一つ目は,冠詞を持たない日本語における記述的表現,裸名詞句(e.g., 「白い犬」,「グラスを持っている男」)の意味論・語用論を考察することである.二つ目は,日本語の研究を通じて,自然言語と思考や命題との関係について考察するきっかけを探すことである.本発表ではとりわけ,自然言語の文法形式と命題の論理形式との関係について論じる.
 20世紀初頭の,B.ラッセルによる分析以降,英語の確定記述 (e.g., 'the present king of France') そして不確定記述 (e.g., 'a brown cow') は広く研究されてきた.しかしながら,冠詞を持たない諸言語(ポーランド語といったスラブ諸言語,日本語といった東アジア諸言語,etc.)における記述の研究は立ち遅れている.日本語においては,指示詞(e.g., 「あの」,「この」)や量化詞(e.g., 「すべての」)などを含まない裸名詞句が英語の記述のような役割を果たす.
 
(1) 現在のフランスの国王は優秀である.
 
例えば話者が(1)と発話することによって,話者は特定の人物について語っているように思われる.名詞句「現代のフランスの国王」は,少なくとも表面上,冠詞にあたる語句を含まない.日本語の裸名詞句を含む文は一体どのように分析されるべきなのだろうか.
 私は本発表において先行研究を批判的に検討する.まず私は,P.ラドローとG.シーガル (2004)による,確定・不確定記述の統一的分析は英語そして日本語に当てはまらない,と主張する.彼らによると(1)は意味論的には不確定記述を含む文として分析される.そして,グライスの含みの理論よってその用法を説明する.しかし彼らの分析は,英語に関して,含みの取り消し可能性について間違った予測を立て,そして,義務的な複数形を持たない日本語名詞に適用不可能である.
 続いて,飯田隆(2004)による日本語裸名詞句の分析にも問題点があることを指摘する.飯田も(1)を不確定記述を含む文として分析するが,その用法を情報構造の概念に基づき説明する.最も重要な問題点は,飯田の分析は,(2)のような裸名詞句のロバ文的用法における,唯一性・最大性を容易に導出することができない,というものである.
 
(2)得意教科を持つすべての生徒は得意教科で満点をとった.
 
結果として,G.キェルキア(1998),V.デイヤール(2004)が推し進めるような,タイプ変換といった独立の意味論的法則に基づく裸名詞句の意味論が擁護される.日本語の裸名詞句それ自体には,不確定記述・確定記述といった特定の論理形式を付与すべきではない,と結論づける.
 日本語裸名詞句の経験的な考察からの哲学的帰結として,論理形式について以下の主張が導かれる.自然言語文の文法的・統語論的構造は,それを用いて表現される命題の論理形式を一意的に決定しない.私のこの主張は,J.スタンリー(2000)やJ.キング(2007)に見られるような,自然言語の文法形式と命題の論理形式とを密接に結びつける,初期ウィトゲンシュタイン的とも考えられるような思想を反駁する.かつてG.フレーゲ,ラッセルが述べたように,文法形式と論理形式の間には溝が存在するのである.
 
参考文献
 
飯田隆(2004). 記述について. http://phil.flet.keio.ac.jp/person/iida/
Chierchia, G. (1998). Reference to kinds across languages. Natural Language Semantics, 6(4): 339-405.
Dayal, V. (2004). Number marking and (in)definiteness in kind terms. Linguistics and Philosophy, 27(3):393-450.
King, J. C. (2007). The Nature and Structure of Content. Oxford University Press.
Stanley, J. (2000). Context and logical form. Linguistics and Philosophy, 23(4):391-434.