ヴァルター・ベンヤミンの「アウラの凋落」概念について

秋丸 知貴

 ヴァルター・ベンヤミンは、「複製技術時代の芸術作品」(1935‐36年)で、「歴史の広大な時空の中では、人間集団の存在様式が相対的に変化するのに伴って、人間の知覚のあり方もまた変化する」とし、「私達が同時代人として目にしている変化」を「アウラの凋落」と形容している。本発表は、このベンヤミンの「アウラの凋落」概念を読解し、その現代的意義を解明する。
 まず、ベンヤミンの「アウラ」概念は、「写真小史」(1931年)、「複製技術時代の芸術作品」、「ボードレールにおける幾つかの主題について」(1939年)等の原著に即して考察すれば、同一の時間・空間上に共存する、主体と客体の相互作用により相互に生じる変化、及び相互に宿るその時間的全蓄積と分析できる。そして、そうしたアウラを典型的に生み出す、主体が客体と同一の時間・空間上で原物的・直接的・集中的・五感的に相互作用する関係を「アウラ的関係」、その場合の主体の客体に対する知覚を「アウラ的知覚」と定義できる。
 本質的に、天然環境における生来的肉体と本来的自然のアウラ的関係によるアウラ的知覚は、人間にとって全く自然である。技術が全て天然自然に基づく環境を指す「自然的環境」(ジョルジュ・フリードマン)では、基本的に人間の知覚は、全てこのアウラ的知覚であり、そこでは一般的に人間は、意識集中と五感全体による持続的で充実的なアウラ的知覚に基づいて、自然や他者と綿密で感情移入的な情緒的相互関与を行っていた。
 これに対し、19世紀以後、蒸気機関や写真を筆頭に、「有機的自然の限界からの解放」(ヴェルナー・ゾンバルト)を特徴とする各種の「近代技術」が広く一般社会に普及し、主体と客体の間に様々に介入し始めると、主客の自然な心身的相互交流、つまりアウラ的関係は現実的に阻害され、主体の「感覚比率」(マーシャル・マクルーハン)は捨象的に変更され始める。その結果、近代技術的環境においては、日常生活の様々な場面で脱自然的知覚が発生し、「アウラの凋落」(ベンヤミン)が発生することになる。この場合の主客の関係を「脱アウラ的関係」、その際の知覚を「脱アウラ的知覚」と形容できる。 この脱アウラ的知覚は、自動機械、大都市群集、博覧会、百貨店、蒸気鉄道、自動車、飛行機、写真、映画、複製芸術、蓄音機、ラジオ、電信、電話、ガラス建築、電気照明、新聞等において生起する。現代では、テレビやインターネットがその最たるものであろう。
 こうした近代技術による「アウラの凋落」の長所は、人間の活動限界を自然的制約から解放することである。しかし、その短所は、「経験の貧困」(ベンヤミン)をもたらし、自然・他者との共感的・相互交流的な人格陶冶を衰退させることである。
 いずれにしても、こうした「アウラの凋落」は、イデオロギーや道徳判断とは無関係に進行する純粋に知覚的で無自覚的な変容過程である分、認識が困難である。その意味で、ベンヤミンが先駆的に抉摘した「アウラの凋落」概念の解読は、過去との比較の上で現在を定位し、未来を洞察するための一助となるはずである。