抽象絵画と写真――ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を手掛りに

秋丸 知貴(日図デザイン博物館)

 従来一般に、絵画は、写真という客観的再現上の強敵が出現したことで、写真では再現できない媒体独自の造形表現の追求に進み、その結果、外界の再現描写に依存しない純粋な抽象絵画が誕生したと説明されてきた。また、オットー・シュテルツァー『美術と写真』(1966年)や、アーロン・シャーフ『美術と写真』(1968年)を筆頭に、写真は、絵画に対し、当初は人間的視覚に基づく自然主義的再現描写の補助手段として(ドミニク・アングル、ユジェーヌ・ドラクロワ、ギュスターヴ・クールベ)、やがて機械的視覚が開示する脱自然的変異造形の見本として働いたと解説されることが多かった。
 本発表は、これらを補足し、新知見として、ヴァルター・ベンヤミンの「アウラ」概念を読解し、絵画の抽象化に、「写真によるアウラの凋落」の様々な反映を指摘する。
 まず、ベンヤミンの「アウラ」は、「写真小史」(1931年)、「複製技術時代の芸術作品」(1935‐36年)、「ボードレールにおける幾つかの主題について」(1939年)等の原著に即して考察すれば、同一の時間・空間(=いま・ここ)上に存在する主体と客体の間に成立する、相互作用による変化の痕跡、及び相互に宿るその時間的蓄積の総体と分析できる。そして、その主体と客体が、同一の時空間上で現存的・直接的かつ集中的・五感的に相互作用している関係を、「アウラ的関係」、その主体の客体に対する知覚を、「アウラ的知覚」と定義できる。
 これに対し、対象の外観の感光的転写に過ぎない写真では、被写体の「アウラ」、つまり持続的経験体としての物質的要素は「凋落」する。そのため、写像は全て、「形」と「色」という表層的な二次元的構成要素に還元される。また、写真では、鑑賞者と被写体は常に同一の時空間上に存在しないので、両者の関係は疎外的に断絶され、「アウラ的関係」は完全に破綻する。そのため、「非アウラ的関係」による「非アウラ的知覚」が生じ、鑑賞者は、被写体に対し、視覚以外の五感を剥奪され、その視覚も、情緒的相互交流の欠如により感情移入が減退する。これらの結果、究極的に、全ての写像は、実在性と共感性を欠いた単なる空疎で自律的な抽象模様と化す。
 例えば、写真模写を想定されるフレデリック・バジルの集団肖像画は、鑑賞者を異常に冷淡に凝視している。また、そうした肖像写真による「死後のショック」(ベンヤミン)を象徴的に造形化したのが、ギュスターヴ・モローの生首主題と解釈できる。さらに、写真を絵画制作に利用していたエドゥアール・マネの平面的人物像は、写像における立体性の欠落や退色現象と類似し、写真愛好家エドガー・ドガの分断的人物像におけるモデルと造形の解離や、クロード・モネの瞬間的映像への固執は、非人間的即物性の面で写真と共通する。そして、写真を臨写していたポール・セザンヌ、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ、ジョルジュ・スーラにおける形態と色彩の自由化には、逆に白黒・三色写真の固定的・抽出的映像の感化を観取でき、アンリ・マティスは、自分の主観的画風に、逆説的に写像の無機的客観性の反映を示唆している。なお、写真家パブロ・ピカソのキュビズムやコラージュにおける一点透視遠近法の崩壊にも、写像の三次元的二次元性の影響を看取できる。
 これらの問題群を、文献資料、写真図版、絵画図版の比較照合に基づき、多角的かつ総合的に論証する。