いかにして知覚は実在の複製物であることなしに質的に多様でありうるか――ベルクソンにおける反現象学的アプローチ(仮題)

平井 靖史(福岡大学)

 ベルクソンの知覚論を概観する。
 ベルクソンの知覚論が、反現象学的ではあることはよく知られているが、逆に、その生態学的側面(ギブソンのアフォーダンス理論との類同性)は強調されすぎているように思われる。知覚が純粋思弁的認識に属するものではなく、生物学的・生態学的本質を有するものであることを強調することは、当時のベルクソンにとって確かに一定の戦略的意味を持っていたが、彼の理論それ自体の構成を見極めるならば、生態学的水準(P1)は(その歴史的な画期性はいくら強調してもしすぎることはないとは言え)、これを挟み込む他の諸水準(全面的に相互作用する生地を構成するものとしての力学的水準(P0)、および自動的作用回路の対称性の破れをもたらす「心理学的」水準(P2))との連関においてこそ、決定的な理論的射程を持っていることに気づかされる。だが、その掘り下げが十分に行われないのは、理論の独自性をより広い議論文脈からの吟味に耐えるレベルで解剖・紹介することを怠ってきたわれわれベルクソン研究者の側に責任があると言っていい。

 第一に留意しなければならない点は、ベルクソンは、一方で、はっきりと、知覚が事物そのものに到達するとする直接知覚論を採っているが、他方で、現実の知覚を、(主観的複製物と見なす観念論的懐疑論に対して警戒するあまり)いかなる主観的混入も排した純粋に外的(ないし世界的)なもの「のみ」からなると考える反動的な立場をとっているわけではない、という点である。というのも、混成体である現実の知覚の「土台」を提供する〈純粋知覚〉が、紛れもなく世界の対象そのものの側で生じると考えられるのであれば、そのうえに感情的感覚と記憶という、ともに純粋知覚とは本性を異にする二つの主観成分が接ぎ木されていることを認めることは、もはや忌避すべきことでも否定すべきことでもないからである。
 純粋知覚論(PP)の眼目は、他の事物との相互作用連関のただ中におかれた一通過点として身体を考察することで、知覚の実在への到達(数的に別個な複製物ではないこと)を確保することにある。このため純粋知覚論は、現実の知覚に比して、明らかな理論的抽象を必然的に伴うが(これは方法的要請としてベルクソン自身によって明確に意識されていた)、感情的感覚の理論(AA)がこの身体に空間的広がりを返し、(過去の直接想起論を含む)記憶論(MM)が時間的厚みを返すことで、現実の知覚が内包する絡み合った階層構造が丁寧に解析されていく。こうした繊細な包括性に、ベルクソン理論の知的豊穣さがある。さらに付言すれば、ややもすれば過去実在論と過去の直接想起論(および脳内局在説批判)という見かけ上センセーショナルな側面ばかりが注目されがちなきらいのある記憶論においても、知覚論と連動して検討されるべき論点は数多い。本性の異なる二つの記憶力の有名な区別(運動メカニズムとイメージ記憶)はむしろ全体から見れば予備的な考察に属するものであって、後者のイメージ記憶に話を限っても、(記憶円錐の図とともにその独創的解釈がよく知られている)〈想起〉(Ms)や「連合」はその多様な動作様態の一つに過ぎず、このほかに、過去を現在に統合する〈凝縮=保持〉(Mc)の働きや、そうして過去が知覚に(意識的想起に先行して!)〈浸透〉(Me)する働きが、その知覚との連関を厳密な仕方で見定められるべきものとして残されているのである。
 純粋知覚論(PP)に話を戻そう。われわれの解釈が正しければ、純粋知覚論は冒頭に挙げた三つの水準(P0, P1, P2)から構成される。作用反作用の均衡によって結びつけられた力学的宇宙の全体論P0が、質的知覚の現出を準備する。まず、P1は、作用の総体に対して、限定的・選択的な反作用しかなされない場合に、この反作用の側の過小が反映される形で、作用の事実上の縮減をもたらすことによって定義される。たとえば、外界に対して、敵からの逃避と餌への接近捕食の二つの反応のみを返す原始的動物を考える。すると、敵と餌以外の知覚刺激は事実上無効化されるが、このことにより、図と地の功利的差別化が生じる。ここで、単なる力学的作用の通過(この場合反作用は全面的・非選択的)とは区別された、初次的な意味での知覚(可能的反作用の鏡映としての知覚)が生じると言えるが、それは、ちょうどユクスキュルの環世界Umweltのように、原点としてとられた物体・身体の、可能的反作用・仕様(スペック)によって定義され、これの非因果的・非時間的効果としての作用の相対的縮減という「減算」のみによって描き出されるものである以上、あらたな心的表象の作成作業を想定することなしに、世界そのものの側で、その構成的部分として現出すると言えるのである。
 さて、「できることのみが知覚される」というこのP1水準は、しかし、種に応じた反応可能性によって定義されるというまさにその点により、われわれ人間が各人抱くような個性的体験質を帯びた現実的知覚(P2)にとっては、その下書きを提供するものでしかない。知覚のP1水準が、「与えられる作用の総体に対する可能な反作用の過少」によって定義されたのに対して、P2水準は、「特定の作用に対する反作用の過多(つまりは反作用の非決定性)」によって定義される。それはこういうことである。P1において全体から縮減された作用回路は、しかしその残存分に関しては、依然として作用と反作用が一対一対応する(その意味で必然的な連結をなす)ものであった。P1の知覚が現実の持続を要求しないのはそのためである。ところが同一の刺激作用に対して、複数の反作用可能性が開かれるとなると、事情は異なる。知覚はもはや所与の可能的反作用のみによっては規定されず、時間の効果が現実的に介入してくるからである(様相の移行)。これがP2水準が導入されるべき理由であり、そこで問題となるのは、もはや単に生態学的な知覚ではあきらかにない。
 発表では、上述の知覚理論の骨組みを整理した上で、時間の許す範囲で、記憶の〈凝縮=保持〉(Mc)やその知覚への〈浸透〉(Me)のもたらす効果について検討を加えられたらと思う。