人はいつ死の害を被るのか
—死後の性質帰属と、時間と持続の形而上学

鈴木 生郎(慶応義塾大学)

 本発表は、千葉大学の吉沢文武氏(以下敬称略)の刺激的な論文「死によって誰が害を被るのか——剥奪説を批判する——」(『哲学の探究』第36号、2009年)及び発表「死者とはどのような「存在者」なのか」(応用哲学会第一回年次研究大会、2009年、於京都大学)に触発され、そこで提起された問題に私なりの仕方で解答を与える試みである。
 吉沢の一連の論考は、「人は死ぬと存在しなくなる」という非常にもっともなテーゼ(「終焉テーゼ」)と、「われわれは死ぬことによって死後に害を被る」というテーゼ(「死後の害のテーゼ」)をどう調停するか、という問題に関わる。この二つのテーゼは、直観的に相容れない。例えば、もし私が死ぬことによって存在しなくなるならば、死後に害を受けるものなど文字通り存在しないのではないだろうか。
 この問題に対する単純な解答は、「死後の害のテーゼ」を否定することである。例えば、死の害は端的に存在しない。あるいは、もし死の害といったものがあるとしても、その害を被るのは生前の人である、というように。前者の論文において吉沢は——「剥奪説」と呼ばれる、死の害の分析として現在最も有力な立場を批判しつつ——死後の害のテーゼのこうした拒否に一定の支持を表明している。しかし、吉沢も十分自覚しているように、そこから導かれる帰結には直観的な難点がある。死の害が全く存在しないと主張するのはあまりに過激であり、われわれがまだ死んでもいないうちから死の害を被ると考えることも奇妙である。
 もし死後の害のテーゼを捨てないならば、このテーゼと終焉テーゼを調停する必要がある。すなわち、人が死ぬことで存在しなくなることを認めつつ、死後に人に対して死の害を帰属することを許す枠組みが必要である。より一般的に言えば、ある対象が存在しなくなった後に何らかの性質が帰属されるといった事態を有意味なものとする、時間と持続についての存在論的枠組みを与えることが必須なのである。
 吉沢が応用哲学会での発表で行ったのは、そうした枠組みの吟味である。そこで吉沢が取り上げているのは、(1)三次元主義+現在主義+マイノング主義(ユアグロー)と、(2)四次元主義+永久主義(シルバースタイン)の二つの立場である(正確には、吉沢はその発表で「命題説」と呼ばれるもう一つの立場も取り上げているが、この立場は時間と持続についての存在論的枠組みというより、死後の害のテーゼを否定することで先の問題を解消する立場である)。そこで吉沢はシルバースタインの立場が、死の害のテーゼを擁護するものとはならないと(私の考えでは、まったく正当に)論じ、ユアグローの立場に——それがマイノング主義の採用という高い存在論的コストを要するものであることを認めつつも——一定の共感を寄せている。
 (ここまでの紹介で、吉沢が、死後の害のテーゼを捨てるという選択と、死後の害のテーゼを守りつつユアグローの立場を採るという二つの相反する戦略を採用しているように見えるかもしれない。しかし、この点は、吉沢のより繊細な立場を単純化して提示していることに起因するものであり、彼の非によるものではない。)
 こうした吉沢の議論に対して私が本発表で示したいのは、次のことである。まず私は、(1)死後の害のテーゼは正しいと論じる。さらに、われわれはしばしば亡くなった人に様々な性質を帰属することがあり、こうした性質帰属を理解するためにも、それを可能にする存在論的枠組みが必要であることも示す。次に(2)こうした性質帰属を適切に扱う存在論的枠組みは、吉沢が取り上げた二つの枠組みのいずれでもなく、三次元主義+永久主義の枠組みであると論じる。さらに、(3)この立場に対するありうる反論の幾つかに答えると共に、この立場から導かれる帰結とこの立場が解決すべきさらなる課題を指摘する。
 また、本発表は、コメンテーターとして吉沢氏自身を迎え、批判的な観点から発表を吟味してもらう予定である。このことで対立がより鮮明になり、議論が盛り上がることを期待する。