可能世界と個体の同一性――ライプニッツの場合(仮題)

山口 裕人(大阪大学)

 17世紀半ばから18世紀初頭にかけて活躍していたライプニッツが、既に〈可能世界〉なる概念を繰り広げていた事は今や周知の事実であるが、今日ではこの〈可能世界〉を巡るライプニッツの立場を「可能主義的」なものと見なすのが一般的な理解であるように思われる。ここで「可能主義」的であるとはつまり、実際に我々が在るこの現実世界と並行して別の可能世界たちが存在し、かつ各々の可能世界に於いて在る個体は自らが在る世界にのみ存在する――つまりWorldbound Individuals――とライプニッツは主張しているのだと解釈している、という意味である。こうした解釈は今や哲学史上の通説と化している感さえ覚える。例えばアーヴィン・プランティンガがこういう解釈を提示しているし、またライプニッツの研究書なり論文なりを物している人々で言えば、ベンソン・メイツもしかり、石黒ひでもまたしかり、……ということになる。しかしながらここで指摘しておきたい事実が一つある。即ち、今挙げた哲学者達の内アーヴィン・プランティンガは、自らの解釈の根拠として引用するテキストそのものについて、「これは見たところ曖昧な言い方である」This is on its face a dark sayingと評しているのである。プランティンガ自身はすぐに続けてライプニッツの「可能主義」的解釈を提示するのであるが、果たしてそのような解釈は本当に妥当なものなのであろうか?
 本発表が目指すのは、今し方引用したプランティンガの評言に僅かばかりの力を得て、可能世界にまつわるライプニッツの見解を「可能主義」的なものと解釈する事に対して、個体を巡る議論に焦点を絞りつつ疑義を呈する点にある。この目標を遂行するに当たり、本発表では特にライプニッツの〈世界〉という概念についての見解、及びそもそも〈概念〉をどのように論じているのか、に的を絞り検証する。〈世界〉概念について言えば、ライプニッツの見解を「可能主義」的に捉える見解が、そもそも世界の創造についてのライプニッツの見解を、無数の可能世界というものは完足した無数の個体概念によって既に組み上げられており、神の創造とは神が既に出来上がっている無数の可能世界の内たった一つを「現実に存在するもの」として選択するに過ぎないと主張しているものと解している点を批判し、ライプニッツにとっては、神自身の計画に基づいて世界が選択されて初めて一つ一つの個体もその内実が決定されるのである事、及び可能世界それ自体は明確に決定されてあるものとして在るのではない事を指摘する。後者即ち〈概念〉論について言えば、『認識、真理、観念についての省察』や『形而上学叙説』などに於いてライプニッツが〈観念〉と〈概念〉とを区別している事を軽視ししばしば同一視さえする点を批判し、少なくとも個体概念についてはこの区別こそが重要な議論上の鍵を握っている点を指摘する。
 (※実際の内容が上記と若干相違するかも知れない事を予めお断りしておきます。)