因果と自然
―――黒田亘『知識と行為』を読む―――

萬屋博喜(東京大学)

 現在、英米圏の心の哲学や認識論では、人間の心や認識に関して自然化を試みる「自然主義」の立場が優勢なものとなっている。その立場によれば、意識や志向性などの人間的事象は自然現象の一部として理解でき、基本的には自然科学的手法で解明できるのである。
 このような自然主義の観点に立つ議論は、しばしば因果性について次のふたつの了解を共有していると思われる。
  (A)因果性の関係項(「原因」と「結果」)は物的なものに限られねばならない。
  (B)因果性は法則的に了解されねばならない。
(A)と(B)の見解は、哲学的自然主義によってしばしば共有されるだけでなく、現在の自然科学においても共有されている。このような見解は、科学的な因果了解と呼ぶことができよう。
 しかし、科学的な因果了解は、それほど自明なものであろうか。われわれは日常的な因果了解において、因果性の関係項に心的なものを認めるだろうし、因果性が必ずしも厳密な法則を含意しないものとみなしている。例えば、今朝路上で目覚めたのは昨晩の深酒のせいであり、昨晩の深酒は失恋の悲しみのせいであるというように、われわれはじつにさまざまな場面で因果了解を得ているのであり、そのような了解は科学的な因果了解と必ずしも一致しないのである。
 もとより、われわれにとってなじみ深い日常的な因果了解は、科学的な因果了解に回収もしくは 還元できるようなものではない。この事情をとらえずに、日常的な因果了解は科学的な因果了解に 満たない未熟なものであると主張する見解が散見される。この見解は、「因果性も自然現象の一部 であり、基本的には自然科学的手法によって解明可能である」という基本的な主張にもとづいてい る。本稿では、この主張を「因果性の自然化」と呼ぶことにしたい。
 このような因果性の自然化に対し、警鐘を鳴らしたのが黒田亘である。黒田は『知識と行為』 (1983)において、日常的な因果了解が科学的な因果了解に満たない未熟なものであるという見解 を批判している。黒田によれば、日常的な因果了解は科学的な因果了解では掬いとれない独自の側 面をもち、科学的因果了解は日常的因果了解から派生したものにすぎないのである。
 本稿の目的は、『知識と行為』における黒田の議論が、「因果性は自然現象には還元できない独 自の側面をもち、哲学的方法による考察が不可欠である」という主張、すなわち「因果性の反自然 化」というアイデアを示唆していることを明らかにすることにある。そのためにまず、黒田の基本 的主張である「因果説」が提出された背景と、その意味を簡単に説明する。次に、日常的な因果了 解の典型例として知覚因果をとりあげ、それに関する哲学的理論としての「知覚の因果説」を擁護 する黒田の議論を紹介することによって、かれの因果性に対する見解をより明確なものとする。最 後に、黒田の因果説を認めることが、われわれの因果了解に対して、どのような帰結をもたらすこ とになるのかを検討する。