現在、下記のレクチャーテーマに関するアンケートを行っております。
ご回答いただける方は、お手数をおかけしますが、通信担当・杉本annai@wakate-forum.org
までご連絡ください。
締め切りは2008年10月19日までとなっております。
  1. 他者論
    他者論は長い間、主として認識論的な他我問題として論じられてきた。しかし、他者の謎は決して そのような問題構成のうちに尽くされるわけではない。現代では倫理や行為、言語などより広く新 しい視点から他者の意味を捉えようとする試みが多様に展開されている。単に孤立した認識主観で はないこの私にとって、他者とは何なのか。従来の思考の繰り返しではなく、自らの言葉で考え、 問題に取り組む論者たちに古くて新しいこの問題を論じていただく。

  2. 哲学から見る「現在」
    世界は変わってしまった。ネット化、格差、グローバリズム、テロと戦争、セキュリティなど、現 代という時代のキーワードと思しきものは多くあるが、そのほとんどには不安と見通しがたさの印 象が付きまとう。哲学から見て、私たちの生きているこの日本・この世界とはどのようなものなの か。そして哲学は、現在の状況を分析し、方向性を示す力を今でも持っているのだろうか。これら の問いに関して、政治哲学、社会倫理の専門家に伺う。

  3. 生物学の哲学
    生物学の哲学、とりわけ進化論の哲学はいまや物理学の哲学とならぶ科学哲学の主要な柱であると 言っても過言ではない。その基本的な洞察のひとつ――あたかも何者かによってデザインされたと しか「思われない」生物の精妙な諸器官が、それ自体一つ一つは無目的な偶然的作用の積み重ねに よる所産に過ぎないという洞察――は一見したところ還元的な説明である。しかし、進化論の学説 はこの洞察をどのレベルのどのレベルに対する還元に適用することになるのか(なりうるのか)を 正確に理解することはまったく容易ではない。今回は、この論点も含め、生物学の哲学のフロンテ ィアがどこまで到達しているのかを論じていただく。

  4. 現代分析哲学における自己知論
    「心」という言葉を聞き、この言葉を理解するときに人がもっとも手近なものとして参照するのは 「自分の心」ではないだろうか。現代の分析哲学の領域においては、「自分の心」を知る際と「他 人の心」を知る際とには全く違ったプロセスが生じているのではないかという議論が存在する。「 自分の心に関する知」は「他人の心に関する知」とどのような意味で似ており、どのような意味で 異なっているのだろうか。この問いに応答するため、そして自己知の他の特質を説明するために、 自己知に関する議論は「認識論」や「行為論」の領域に及んでいる。自分の心に対する知識と他人 の心に対する知識との違いは、果たして認識論に関わるものであるのか、それとも行為の領域にお ける合理的行為者性という観念から帰結するものであるのか。あるいは、それらが錯雑に絡まり合 ったものなのか。これらの内のいずれかであるとして、その正しい描像から自己知のどのような特 質が顕わになるのだろうか。立場を異にする論者の方々にレクチャーをお願いする。

  5. 新カント派
    しばしば現代の哲学には、「分析系」と「大陸系」という二つの異なる潮流が存在するとされる。 確かに、それぞれにおいて中心的に論じられる問題や、踏まえられている議論の文脈、問題にアプ ローチする際のスタイル等を比較してみた場合、このような印象は否定しがたく、二つの間には大 きな隔たりがあるようにも見える。しかし一方で、ダメットも指摘するように、これら二つの潮流 はその源泉において多くのものを共有していたという事実は見逃されるべきでない。そしてM.フリ ードマンによれば、とりわけ「新カント派」と呼ばれる伝統は、そのような共通の源泉のうちの極 めて重要な一部を構成する。というのも彼によれば、フッサール、ハイデガー、カルナップといっ た二つの潮流の創成期を担った哲学者たちの多くは、この新カント派の背景のもとで哲学的キャリ アをスタートさせ、大きな影響を受けているからである。このような指摘を踏まえ、今回のレクチ ャーでは、現代の哲学を見直すための一つの契機としての新カント派に注目し、気鋭の研究者たち による最新の研究成果を報告していただく。

  6. 相対主義
    「何が正しいかは、文化によって、宗教によって、人によって、様々に異なる」――現代ほど、こ うした相対性の実感が強いリアリティと切実さをもって語られる時代もないだろう。しかし、それ が「相対主義」という一個の理論として語られると、重大な問題を抱え込むことがよく知られてい る。相対性を語ることが困難なのは、それが「相対性を語る者自身はどこにいるのか」という問題 を生む点にある。つまり、かりにその主張の絶対性を主張するものなら相対主義は自己論駁的なも のとなるし、逆に、その主張自体も相対的であるとするなら、今度は自己言及的な無限後退に陥っ てしまうのである。それならば、我々は相対性という実感を消去しなければならないのだろうか。 あるいはこの実感は、まさに単なる「実感」として、哲学的探究から離れた文学的表現の内に落ち 着くべきものなのだろうか。それとも、相対性を語る何らかの道がありうるのだろうか。認識論や 倫理学、あるいは美学といった哲学的分野における相対主義の現在を、気鋭の論者に議論していた だく。

  7. 論理学・数学の哲学
    20世紀の間に、数理論理学は科学の一分野として確立され、計算機科学との関連もあいまって独自 の発展を遂げてきた。こうした発展によって、例えば真理や証明といった、論理における基本的な 概念の理解には何がもたらされているのか。また、数理論理学の誕生の背景には、19世紀末から20 世紀初頭にかけての数学の基礎を巡る探求がある。この時期の仕事の基礎付け主義的な側面には現 在あまり敬意が払われなくなったとはいえ、その中で提示された概念的な分析、問題や思想に未だ 汲み尽くされていない点が残されていることは、数々の歴史研究が示している。こうした背景を踏 まえ、論理学・数学の概念的基礎について、数理論理学や論理学史の研究者を交えたレクチャラー の方々に論じていただく。

  8. 時間論の最前線
    「時間とは何か」という問いは、さまざまな観点から繰り返し論じられてきた伝統的なトピックで ある。しかし、時間は、現在でもわれわれにとってきわめて不可思議な哲学の謎の一つであること に変わりはなく、いまなお哲学者のあいだで一定の共通了解が得られているとは言い難い。例えば 、過去から未来への「流れ」という時間の特徴は、タイム・トラベルの可能性や運命論などの問い を引き起こす、現在でもホットなトピックの一つである。こうした状況をふまえて、時間は実在す るか、時間は流れるのか、といった困難な問題について、時間論の最前線に立つ論者たちを招き、 それぞれの観点から論じていただく。

  9. 分析美学とフィクション
    絵画、彫刻、文学、音楽。これらを観賞する際、意識はどこへ向かっているのだろう。我々は現実 の作品へと向きあいながらも、現実の作品をただ知覚しているのではない。古典美学は、このよう な芸術体験を範としつつ、美的体験一般を「イデア的なものの看取」「構想力と悟性の遊動」「無 限の全体についての経験」等の様々な形で表現してきた。一方、現代の分析美学は、「フィクショ ン」という観点から芸術体験を考察する傾向にある。しかしそこでは、「フィクション」という言 葉がどのように定義されるべきかという点からして各論者の主張は様々である。そして、「フィク ショナルな文とは普通の文といかに異なるのか?」「フィクショナルな対象とはどのような存在様 態をもつのか?」「そもそもフィクションという言葉はどの範囲まで適用されるべきなのか?」、 こういった問題は、いまだはっきりと結論づけられてはいないようだ。近年のフィクションにまつ わる議論について、気鋭の論者たちに、言語哲学、認識論、存在論、形而上学などの観点から、「 フィクショナルではない」レクチャーをお願いする。