意味はなぜ現象学の問題になるのか
―フッサールの意味の理論再訪―

植村玄輝 (慶應義塾大学)

 フッサールに始まる現象学の伝統において、「意味(Sinn/sens/sense;Bedeutung/signification/meaning)」は、もっとも中心的な位置を占める概念である。このようなまとめには、ほとんど異論を差し挟む余地がないように見える。だが、現象学の伝統に属するとされる哲学者たち−例えば、フッサール、ハイデガー、メルロ=ポンティ、レヴィナス−が「意味」ということでそれぞれ何を考えているのかということは、(ひょっとすると本人たちにとってさえ)自明ではない。
 こうした事情に直面した際に取りうる戦略の一つは、いわゆる「現象学の伝統」において意味が問題として浮上してきた最初の場面に改めて立ち戻り、それがなぜ問題になるのかを問い直すというものだろう。われわれはこれを本発表の課題としたい。より具体的には、
  1. フッサール自身が「意味の理論Bedeutungslehre」と呼ぶ分科に属する問題群を中心にして、『論理学研究』初版(1900/01年、以下『論研』)を体系的に読解し、
  2. 『論研』以降のフッサールの思想の発展を簡単に跡づけることによって、
  3. 現象学的な哲学において意味概念が果たす役割の一例をしめす、
ことを目指す。
 われわれの議論は、以下のような手順で進む(予定である)。まず、フッサールの意味の理論の背景を、ボルツァーノ(「命題自体 Sätze an sich」の承認)およびブレンターノ(記述的心理学のプログラム)からの影響という観点から確認し(第一節)、『論研』における理論を概観する(第二節)。次に、『論研』公刊以降におけるフッサールの漸進的な立場変更を、1913年の『純粋現象学および現象学的哲学のための諸構想』第一巻(『イデーンI』)にいたるまで駆け足で辿ることによって(第三節)、いわゆる超越論的現象学の枠組み内において意味という概念がどのように中心的な役割を果たしているのかについて、一つの見解を示す(第四節)。
 最後に、一連の議論においてわれわれが特に示したい事実について、一言述べておきたい。それは、フッサールの意味の理論−あるいは意味の理論がその中核を占める志向性理論−の発展には、彼による体系的な形而上学の構想が練られていく過程が対応している、という事実である。人によっては強烈な違和感を覚えるかもしれないこの主張が、少なくとも無理筋の解釈からはほど遠いということが示せれば、本発表は成功裡に終わることになるだろう。