柏端 達也 (千葉大学)
「行為における身体はほんとうに一つなのか ――中規模物体をめぐる形而上学的問題が行為論に及ぼす影響について――」

 現代の体系的な存在論一般については、私より精妙かつ適切に語ることのできる人がいるにちがいないから、 私は、より範囲の狭い、個別的な問題の一つを論じることにしたいと思う。 その問題は、「現代の」というより、むしろ存在論の古典的な話題に、根幹部分において関わっている。 ただし問題設定自体は、おそらく新奇な組み合わせによるものである。
 われわれは、すくなくとも行為者としては、正確に一つに定まった輪郭をもつ。 私はそう考えている。それは、行為がかなり特異な種類の出来事であることの帰結である。 つまり、行為という出来事が、時空間において正確に一つの輪郭をもち、かつ、他の出来事と異なり正確に一つの主体(すなわち行為者)をもつということからの、 自然な一つの帰結である。行為の輪郭のそのような正確さは、行為という出来事が行為者の身体運動にほかならないという事実に由来している。 それゆえ、行為の空間的な輪郭の唯一性は、行為者の身体の空間的輪郭の唯一性を必要とする。 ここで、行為者の身体の輪郭こそが行為者の輪郭であり、また、行為者の身体がただ一つであるということを当然の前提とするならば、 行為者の輪郭の唯一性が帰結する。
 以上のような考え方には、もちろん、異論がありうるだろう。 だが私は、以上の描像が、形式的に整合的な行為の存在論への重要な第一歩を与えるものであることを確信している。
 問題は、身体である。上述の描像のなかでも、身体という謎めいた存在者が、行為者と行為とを媒介し、 行為という出来事に特異性を与える役目を担わされている。 そのとき身体は、あきらかに客観的な世界の一部として存在する物理的対象であるとともに、行為者を行為者たらしめている意志や、 自由や、固有感覚や、主観的な視点といったものとも本質的に関わる存在者であると考えられている。
 こうした議論は哲学的には目新しいものではない。もちろん目新しくないから悪いというわけではない。 ただ、身体を特別なものと見なすこうした議論においては、ほとんどつねに「物理的身体」が、対照的に、自明なものとして、 さらには哲学的には退屈でさえあるものとして、扱われる傾向にあった(前段落の私の書き方もその傾向を帯びている)。 まるで、注目すべきは物理的でないこの特異な意味での身体なのだとでも言うかのようにである。
 だが、謎は物理的な身体の方に(も)ある。 たとえばP・アンガーは最近の論文1の中で、いわゆる「多者の問題(the problem of the many)」2 が人間の身体に関しても生じる ――それは物理的な身体が岩や草や胡椒挽き器と同じ中規模サイズの物体なのだから当然である――ことのもつある帰結に注目し、 身体という存在者が、経験主体としての「私」との関わりで非常に厄介な形而上学的問題を (とりわけ物理主義的な世界像に対し)生じさせる点を指摘している。 アンガーが全体として示唆する論点は奇妙なものだが(それはいつものこと)、アンガーのほのめかす方向はさておき、 多者の問題は、ここで大幅にオーバーラップしている無数の物理的「身体」と、行為者としてのとのあいだの関係についても、 同様の厄介な形而上学的問題を生じさせるように思われる。とりわけ私のように、明確な輪郭をもつ身体に基づいて、 行為の存在論を体系づけようとしている人間にとって、それは無視できない論点を突きつけるように思える。
 発表では、行為の文脈における身体――もちろん物理的対象としての身体を含めた意味での「身体」――にまつわる形而上学的、 存在論的な問題を検討することで、行為者と身体の関係や行為者の本性について、いくつか明確になる論点があるかどうかを探ってみたい。 (…というより、こういうディープな問題は私もよく分からないので賢明な方々の意見を仰ぎたい。)

1 Peter Unger, “The Mental Problems of the Many,” D. Zimmerman (ed.), Oxford Studies in Metaphysics, vol. 1, Oxford University Press, 2004, 195-222.
2 多者の問題を扱った日本語で読める文献として、D・ルイス,「たくさん、だけど、ほとんど一つ」, 柏端・青山・谷川編訳『現代形而上学論文集』, 勁草書房, 2006, 1-36をあげておく。

注記:原文での傍点部分は表記の都合上、下線にしてあります。