伊佐敷 隆弘 (宮崎大学)
「現実性と可能性 ―フィクション・反実仮想・未来時制をめぐって―」

 フィクション・反実仮想・未来時制文にそれぞれ現れている異なる種類の可能性(possibility)概念は「非現実性の仮定」と 「実在する物個体への指示」の有無によって区別される。可能性概念が多様であるのに対し現実性(actuality)概念は単一であり, かつ,多様な可能性概念を区別するために現実性概念が必要である。それゆえ,「現実性」の方が「可能性」よりも基礎的な概念である。 私はこのように主張したい。以下説明しよう。

 我々は,現実について語るだけでなく,現実とは異なる事態やまだ実現していない事態について語る。 例えば,フィクションや反実仮想や未来時制文などを語る場合である。これらはいずれも「可能性に関わる」という点で共通である。 では,どのように区別されるのか。少なくとも次の2点によって区別されよう。 (1)フィクションと反実仮想には,「そこで述べられていることがらが現実ではない」という仮定(非現実性の仮定)が常に伴っているのに対し, 未来時制文には伴っていない。(2)反実仮想や未来時制文には,実在する物個体への(明示的ないし黙示的)指示が少なくとも一つ必ず含まれているのに対し, フィクションには全く含まれていない。
 (1)フィクションや反実仮想に非現実性の仮定が伴っていることは明らかであろう。 実在する場所や人物をモデルとするフィクションの場合でも,「この作品はフィクションである」と宣言されれば, 「そこで描かれたことがらは現実ではない」という扱いを受けることになる。 そのように扱われうるのは,元々フィクションに非現実性の仮定が伴っているからだと考えられる。 これに対し,未来時制文には「やがて現実になりうる」という仮定は伴っているが,「現実である」という仮定も「現実でない」という仮定も伴っていない。
 (2)反実仮想と未来時制文には実在する物個体への指示が必ず含まれる。 「もしカンガルーに尻尾がなかったらカンガルーは倒れるだろう」という反実仮想文は, 実在するカンガルーとその尻尾について,「尻尾のおかげでカンガルーは倒れないでいられるのだ」と述べている。 同様に,「もしソクラテスがいなかったらプラトンは哲学者にならなかっただろう」という文中の固有名「ソクラテス」は実在するソクラテスを指示し, この文は実在するソクラテスとプラトンの間の関係について述べている。また,「鈴木氏はあの本を来週返してくれるだろう」という未来時制文は, 実在する鈴木氏に関する文であり,同様に,「明日雨が降るだろう」という未来時制文の場合も,実在する場所(例えば東京地方)が暗黙の内に指示されている。 反実仮想や未来時制文が現実の世界についての想定や予測である以上,実在する物個体への指示が必ず含まれるのは当然だと言えよう。 これに対し,フィクションの場合,ホームズや竜が実在する物個体でないことは明らかだが, 実在する物個体の名前が現れるフィクションの場合も,例えば漫画の中の「王貞治氏」の言動が実在の王貞治氏の履歴に追加されることは決してないが故に, 両者は別物である。また,王貞治氏をモデルにしたフィクションと王貞治氏に関する反実仮想の違いは, 前者では,実在の王貞治氏が指示されていないが故に未記述の細部の内容が確定していないのに対し, 後者では,実在の王貞治氏が指示されているが故に未記述の細部の内容が確定している, という点にある。また,実在する地名が現れるフィクションについても同様のことが言える。
 (ただし,ここで以下の様々な問いが生じうる。フィクションにおいて,記述された部分が未記述の部分を或る程度制約するという関係があるから, 反実仮想との違いは曖昧になるのではないか。フィクションや反実仮想において,現実から乖離しつつもそれがやはり「王貞治氏」であって別人でないのはなぜか。 また,この問いは,未来の「鈴木氏」の場合の人格の同一性の問いとどう重なるのか。 実在しない物個体の存在を仮想する場合にも実在する物個体への指示は含まれているのか。 物個体と出来事個体は何故どちらも「個体」であり,また,両者はどう異なるのか。そもそも個体とは何か。等々。)
 以上をまとめよう。フィクションの場合,<非現実性の仮定,実在する物個体への指示>=<ある,ない>であり, 反実仮想の場合<ある,ある>であり,未来時制文の場合<ない,ある>である。 これら3つの可能性概念を区別するためには現実性概念が先行しなければならない。 (したがって,可能性概念を先行させるルイスの「現実性に関する指標理論」を私は支持できない。)
 さらに次のことが推定できる。様相概念は,世界と我々に関する他の多くの基礎的な概念と同様に, 世界と我々とが協同して作り上げているものであろうが,様相概念のうちで世界の側の役割が最も大きく我々の側の役割が最も小さいのが現実性概念である。 可能性(さらに必然性・偶然性)概念になると我々の側の役割が大きくなって来る。 そして,我々の関わりが少ないほど世界の本来の姿が現れているのであれば, それは,可能性も(必然性も偶然性も)なく,すべてがあるがままにあり,起こるがままに起こっている世界であろう。 (ただし,既に可能性概念を得ている我々が一切の可能性抜きの純粋な現実性を把握するのは困難である。 例えば,眼前の物個体が「コップ」であるという認識には「もし落とせば割れるだろう」という反実仮想が既に含まれている。)