佐藤 邦政 (東京大学)
アスペクト知覚に対する行為の先行性 —ケーラーの〈ゲシュタルト〉と〈アスペクト〉との対比から—

 ウィトゲンシュタイン(Wittgenstein, Ludwig)のアスペクト概念が、 ケーラー(Köhler, Wolfgang)のゲシュタルトと深く関わりがあることはいくつかの先行研究において既に指摘されている1。 だが、これまでウィトゲンシュタインがいかなる点をケーラーの主張から受け継ぎ、そしていかなる点を拒否したのか、 そして、そのような議論を通していかなる帰結を導き出したのかについて、具体的に踏み込んだ研究がなされてきたとは言えない。 本論文では、ウィトゲンシュタインの議論に即しながら、以上の点を明らかにし、 ある態度を盲目的に取ることがそれを知覚することであると結論づけることを目的とする。 発表時における、本論文の具体的な構成は以下を予定している。 まず1.においてゲシュタルト、そして2.においてウィトゲンシュタインのアスペクトという概念についての概要を提示し、 3.においてウィトゲンシュタインの主張に即して、アスペクト知覚と行為との関係について考察する。

1.ゲシュタルト心理学
1.1ゲシュタルトの発見とヒュームの感覚主義
1.2ケーラーのゲシュタルト概念

2.アスペクト知覚
2.1〈として〉構造
2.2多様なアスペクトという概念
2.2.1本議論を、二次元の図形に対する知覚に限定する(奥行きの知覚は問題としない)
2.2.2本議論は、知覚する人物が既にある程度の概念を身につけていることを前提にする(全く概念を有していない赤ん坊を想定しない)。

3.アスペクトとゲシュタルト
3.1ウィトゲンシュタインのケーラーのゲシュタルトへの言及(「私の見ているものは—ケーラーの見解に反して—まさにひとつの意味である」)(『心理学の哲学1』、869節)
3.2ゲシュタルトは態度を取ることの十分条件ではない
3.3ゲシュタルトは態度を取ることの必要条件でもない(図形のゲシュタルトそのものにはいかに反応すべきかは示されていない。『哲学探究 第I部』の議論)
3.4実際には、描かれている図形に対して、どのような反応をすることも可能であったにもかかわらず、立方体として自明なものとして扱う。このことが盲目的に行為することを意味する
3.5盲目的に行為するためには、あるものとして扱うことに習熟する必要がある(「扱う」という言葉はここでは、広い意味で捉えている。 例えば、立方体の図形を前にして「立方体だ」と指示することも立方体として扱うという行為とみなす。 というのも、すこし大きめの異なる図形を差し出された時に、それを「立方体だ」と指示することができないという可能性が考えられるからである)。 一度だけ、ある図形を立方体として扱うことはそれを立方体として見なしていると言うための十分な条件とは言えない
4.結論と展望
4.1対象をいかに扱うか、そして何であるとして知覚するのかは教育に依存する
4.2私たちが一般的に立方体として扱っている対象を私たちのするようには全く扱わないことの可能性

1ケーラーとウィトゲンシュタインについて言及したものとして、 例えばSchulte, Joachim(Experience and Expression: Wittgenstein’s Philosophy of Psychology, Oxford University Press, 1993, pp. 75-85)が挙げられる。