鈴木 祐丞 (筑波大学)
反省のあとの直接性 −キェルケゴールの信仰観と信仰上の生についての一考察−

 キェルケゴールは、信仰を「反省のあとの直接性」と表現し、その境地へと到達することを目指した。 本発表は、こうした「反省のあとの直接性」とはどのようなものか、キェルケゴール自身はその境地へと到達したのかどうか、考察をする。

 『ヨハンネス・クリマクス、またはすべてのものが疑われねばならぬ』の自己論および『死に至る病』の自己論における「直接性」と「反省」の規定にもとづいて、 「反省のあとの直接性」は、「関係の可能性のあとの非関係性」と規定することができる。 「関係の可能性」とは、無限性の側面と有限性の側面という矛盾しあう二項が自己のうちに並存した状態のことである。 「非関係性」とは、矛盾のない一項の状態の自己のことである。 キェルケゴールは、このような「反省のあとの直接性」のさまざまな具体像を、諸著作のうちに描き出している。 一例として、『非学問的な後書』の「謙虚な気晴らしの道」が挙げられる。

キェルケゴール自身、1847年から48年にかけて、「反省のあとの直接性」として表される境地、すなわち信仰へと到達すべく尽力をする。 しかし彼はそれが不可能であることを知るに至るのである。 そしてこの出来事の結果、彼は、キリストの贖罪の意義と必要性を理解し、罪のゆるしを実感するのであった。