中西 豊 (東京大学)
人格の同一性問題への道案内(仮題)

 人格の同一性は、多様なテーマに関わる難問です。古くから不死への恐れ、あるいは期待と共に語られてきた次のような問題ともかかわっています。 果たして「肉体の死=私の死」なのだろうか?と。 また、私とは何ものなのか?というくたびれもせずに問いかけられ続けてきた「人格」についての疑問とも関連を持っています。

 人格の同一性は、卑近な日常に深く根を下ろした概念であり、 クローンなどの科学技術が引き起こすかもしれないやっかいな問題や精神病理の問題などを抜きにして、 誰もこの概念でつまずきを覚える人はいないでしょう。

 ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で同一性言明について 「一つのものについてそれが自分自身と同一であると語ることは、まったく何ごとも語ってない。」と述べていますが、 こと人格の場合に当てはめたとて大差はないです。昨日の自分が今日の自分と同一である事は、ほとんど無条件に受け入れ可能なほどに明らかだからです。 このことは、試しに「昨日の私は、今の私では無い」という言明を額面通り受け取ろうとすると困難に直面せざるを得ない事からもよりいっそう明らかだと思います。 そのとき、「昨日の私」と「今の私」という言葉で、それぞれ何を指しているかに迷うからなのです。

 しかし、この概念の根源性や平凡さをいったん棚上げして、人格の同一性概念の基準は何なのかという問いにアプローチしようと思います。

 まず、人格の同一性の問題を考える際、どういう切り口が最も好ましいやり方かを紹介します。 そこで、この問題がどういう問題なのかを一般的な語彙を用いて描写します。 この描写を通して、ライプニッツの不可識別者同一の原理など、問題を分析する為の原理のいくつかを導入し、 聴き手をこの話題へとキレイに導入して行けるように、幾つかの定式化された問題設定を提示、比較検討します。 これにはJohn PerryやEric Olsonのものを使おうと思っています。その検討を通して関連する概念の抱えている課題を提示することにします。

結局私が問題にしたいのは「変化を通じて同一である」とはどういうことなのか、という疑問です。 これはPersistence Questionと呼ばれ、「変化を通じて同一である」ということをいかにして知るのか、という問題(Evidence Question)とは区別されます。 前者の問題には、幾つかの説があり、最も典型的に考えられ、多くの研究者によって批判されている説が、身体的な連続性を基準とする「身体説」です。 この説の困難を心理的なアプローチで克服しようとする学説があります。 前者の議論をBernard WilliamsやOlsonを引き合いに出して紹介し、後者の議論をRobert Nozikを使って説明します。 私の意見は、おそらく後者の議論に含まれ、かつ周囲の存在や他者の記憶等を必要条件に持つ人格の同一性基準を支持したいと思っており、 その根拠をラフな形で示せたらと思っています。