古荘真敬(山口大学)
「共同体の没根拠と存在の変容―ハイデガーの共同体論の帰趨―」

1936年から38年に執筆されたノート『哲学への寄与論稿』(以下『寄与論稿』と略記)おいて、ハイデガーは、「哲学は、存在の省察として、必然的に自己省察(Selbstbesinnung)である」(GA65, S.48)と記している。自己を省察する、とは、いったいどういうことだろうか。省察されるべき「自己」とは、もとよりハイデガーにとって、歴史的共同体の地盤から孤絶したデカルト的な「私」ではなく、あらかじめ他者(同胞)たちとの相互共存在のうちに接合された歴史的な現存在の存立根拠としての「我々」に他ならなかった。「省察の本質を自己-省察として根源的に基礎づけることにしたがって、〈我々〉自身が、問うことの領域のうちへと共に突き刺さってくるならば、そのかぎりにおいて、〔…〕哲学の問いは、次のような問いの形式へともたらされうることになろう。すなわち〈我々は誰なのか?〉という問いの形式である」(ibid.)と、彼は書き継いでいる。

ハイデガーによれば、存在を問うことは、我々とは誰のことか、と問うことに等しいのである。『人間の条件』においてアレントは 、アリストテレス『ニコマコス倫理学』の一節を意訳して、「万人に現われているもの、それを我々は存在と呼ぶ(what appears to all, this we call Being)」という命題を引き出し、そこにギリシア的な「共通世界」経験の範型を見出そうとしているが、ハイデガーにおいても、ほぼ同様の発想がなされていたわけである。典型的な記述としては、上に見た『寄与論稿』が執筆開始される一年ほど前の講義(1934/35年冬学期講義)を参照することができるだろう。そこにおいて彼は、「存在者が、我々の誰にとっても、あらかじめその存在において開示される」始元的な場所としての「根源的共同体(ursprungliche Gemeinschaft)」(GA39, S.72)について語り、ヘルダーリンの詩を引き合いに出しながら、この「根源的共同体」を、「ひとつの対話(ein Gesprach)」ないし「ひとつの言語の生起(ein Sprachgeschehnis)」(S.69)と呼んでいる。そして、彼によれば、この存在開示の始元的な場所としての「ひとつの言語の生起」こそが、「我々」なのである。「ただ言語の生起するところにのみ、存在と非存在とが明け開かれる。この明け開きと遮蔽こそが、我々自身なのである」(S.70)。

存在を問うことは、ハイデガーにおいて、存在者がそもそも存在者として開示される場所(アレントにおける「万人」の「共通世界」に相当するだろう)を問うことに等しく、その「場所」が、(上記の講義録において)「ひとつの言語の生起」としての「我々」と表現され、(『寄与論稿』において)いったいそれは「誰なのか?」と問い直されているわけである。哲学とは、彼にとって、存在者の存在がそもそも問われるべきものとして開示される「場所」としての「自己」=「我々」=「ひとつの言語の生起」の存立根拠をめぐる省察なのである。

さて、こうした事情を整理しつつ、私は、デカルト的な「揺るぎなき基礎」の改訂版を、ハイデガーとともに、「私」ならざる「我々」の存在うちに再発見しようなどと試みたいのではない。今回の発表において私が取り組んでみたいのは、むしろ、この「我々」の存立の揺らぎをめぐるハイデガーの思考の読解である。『寄与論稿』において「我々は誰なのか?」という問いを提出したハイデガーが、その直後に書きつけている次のようなパッセージの含意を掘り下げることを試みたい。「〈我々は誰なのか〉。だがこの問いのうちには、そもそも我々など存在しているのか(ob wir sind)という問いが横たわり、屹立しているのである。これら二つの問いは不可分であり、その不可分性こそはまたしても、人間存在の、それも歴史的な人間存在の秘匿された本質の告示なのである」(GA65, S.51)。

存在開示の場所としての「我々」への問いに変奏された自己省察としての哲学は、ここにおいて、そもそもそれが存在しているのかどうかすら定かでないような「我々」の存立根拠をめぐる省察とされ、あるいは、「我々」の没根拠への問いに転調されるのである。「我々が自らの本質を人間と存在との間の、そして存在と神々との間の、諸々の底無しの没根拠(Abgrunde)にむけて気分づけ調律されたとき、そのとき初めて、〈歴史〉のための〈諸前提〉が再び現実となりはじめる」(GA65, S.26強調引用者)などと述べられつつ。

ハイデガーは、いったい最終的には、何を望見しようとしていたのであろうか。「存在者としての存在者(on he on)を一者(hen)とする、かのギリシア的な解釈、つまり存在の思惟において一者(das Eine)や一性(die Einheit)がいたるところで獲得する、かの不明瞭な優位」(GA65, S.459)をめぐって彼の提起する疑義のうちに、その手がかりが見つかるだろう。彼の哲学的野心の焦点は、「我々」なるものがそもそも「ひとつの言語」として生起するための根拠である「存在者としての存在者」という根源的同一性の表象を、ある種の根源的仮象として暴き出すことにあった、と言えるように思われる。

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