鈴木泉(東京大学)
「潜在性・可能世界・出来事―新たな世紀における形而上学という戦場をめぐって―」

大陸系哲学の現在を俯瞰する資格も余裕も私にはないが、九〇年代以降のフランス語圏における哲学に限って言うならば、次のような状況が見てとれるように思う。

1/ドイツ観念論に匹敵するような哲学運動としての一九六〇年以降の現代フランス哲学は一つの終焉を迎えた。アンリ・デリダ・リクールらの死はその象徴である。

2/その哲学運動の末端に生まれ、九〇年代を主導したのはマリオン(・シューレ)による神学/哲学史/現象学における作業であり、存在-神-論としての形而上学の超出を目論む点においてデリダの脱構築の作業を引き継ぐものであった。

3/他方、ハイデガーの深い影響下に繰り広げられたデリダからマリオンに至る形而上学批判の思考に対抗するような仕方で、(たとえばF. Nefらの手によって)分析的形而上学の導入が始まりつつある。

4/また、昨年の没後一〇年を一つの機会として、二〇世紀後半における最大の形而上学者の一人であるドゥルーズの本格的読解・活用が始まりつつある。

こうして見ると、形而上学批判/分析的形而上学/ドゥルーズ形而上学という仕方で、形而上学をめぐる複数の立場が立ち並んでいる、と言うことが出来よう。それぞれの立場に限っても検討すべき課題は無数にある(a/存在‐神‐論としての形而上学の形成過程を探求するマリオンとそのシューレの作業、とりわけ、存在の類比の発明を辿り存在-神-論を歴史化・相対化するJ.-F. Courtineや原因概念と根拠律の系譜学を遂行するV. Carraudらの壮大な作業の評価;b/否定神学をめぐるデリダとマリオンの応接の見届け;c/アリストテレス由来の歴史的なそれとは異なる仕方で形而上学に重要な意義を与えるレヴィナスの位置の測定;d/タルドからベルクソンという「別の形而上学」(Montebello)との関わりにおけるドゥルーズの位置づけ、等々)。しかし、ここでは、三つの立場を背景にしながらドゥルーズ形而上学をダイレクトに事柄として評価する観点に立ち、形而上学の新たな戦場に足を踏み入れることにしたい。課題は無数にあるが暫定的に三点挙げる。

i/潜在性:少なくとも『差異と反復』におけるドゥルーズにとっての潜在性概念の重要性は決定的である。可能性(possibilite)と潜在性(virtualite)の概念を区別し、可能性が現実性の成立の事後に回顧的に遡行することによって見出される空虚な概念に過ぎず、この回顧的な遡行によって初めて見出された可能的なものの実現化(realisation)として現実性が捉えられるのに対して、潜在性は、可能性とも、したがってその実現化に他ならない現実性とも類似性を有することがなく、それ固有の独自の実在性を有する、という論点をドゥルーズは自らの存在論の核心に据えている。だが、この潜在性は、一体どのような存在論的な位置づけを有するものなのか。可能性とは区別される潜在性とはどのような存在様相なのか、そもそも潜在性とは存在様相なのか。可能世界の実在が現実世界と同等の重みを有するというルイスの様相実在論、さらにはアリストテレスからライプニッツを経てルイスに至る「可能的なものの流出の進展」(Nef)にまつわる議論と重ねあわせることによって何が見えてくるか。この問いは、もう一人の形而上学者ハルトマンとのつき合わせも要請するかも知れない。

ii/<曖昧なアダム>:可能性概念を自らの哲学から殆ど排除するドゥルーズは、他方でライプニッツの共可能性及び非共可能性の概念を導入し、特異な個体・人称発生論を展開している。とりわけ重要なのは<曖昧なアダム>の議論である。すなわち、或る可能世界における個体間の共可能性だけでなく、アダムが罪を犯す世界とアダムが罪を犯さない世界のような可能世界間の- - - -相互に矛盾しているわけではないが、共に両立可能ではないという- - - - 非共可能性の問いを重要視するときに浮上する、互いに非共可能的なあらゆる世界に共通の「或るアダム=X」の同一性に関する問題である。互いに非共可能的な諸世界とはそれぞれどのような実在性を有し、また、そのような互いに非共可能的な諸世界間に貫世界的ないしは超世界的同一性を有する<曖昧なアダム>とはどのような存在者なのか。個体がそれぞれの世界に局在し、他の世界には類似した分身がいるに過ぎないとするルイス流の分身説とは前提を異にするとして、それでは、この一般的にして(=「或る」)固有名を有する(=「アダム」)<曖昧なアダム>とはどのような存在者であり、そこに何が賭けられているのか。

iii/出来事:さらに、出来上がった個体ではなく個体化の発生の次元を重視するドゥルーズにとって、同一性の網の目によっては掬いきれない出来事の生起を哲学として思考することがその大きな課題であった。概念による同定とも時空的同定とも異なる仕方で、ドゥルーズは出来事をどのように捉えるのか。ドゥルーズの出来事論は、たとえば、ハイデガーのEreignisやデイヴィドソンのeventをめぐる思考- - - - 『意味の論理学』の刊行は1969年である- - - - とどのように切り結び、或いはすれ違うのか。

これら三つの問いを網羅的に扱うべくもないが、以上の考察を通して、ドゥルーズ形而上学をクールに引き受けると共に、「形而上学という戦場」を賦活することを目指す。(なお、本予稿は、既発表論考と一部分重複があることをお断りしておく。)

注:掲載の都合上、一部アクサン等に不備がございます。どうぞご了承下さい。