講演者: 土屋 俊 (千葉大学)
講演タイトル: 文の意味論が成立するためのいくつかの前提について

0. 言いたいことの骨子

 「文の意味論」というプロジェクトは、もしかしたら20世紀言語哲学の最大の誤謬のひとつであったように思われるので、いまだにそんなことをやっている人がいることについては尊敬をこめて当惑する。以下では、なぜそれが誤謬であり、しかし、なぜそれが誤謬であることに気づくことが難しいのかを説明する過程で、言語と意味に関する代替的な見方を示す。日本語の問題はとくに扱わない。

1. 言語と伝達


 話し手は、聞き手に何かを伝えようとして言葉を使う。通常、話し手は、その伝えられる何かを意味とする言葉を使用する。聞き手がその言葉を理解することによって伝達は成功するとされるが、そのためには、聞き手はそこで使用された言葉の意味を知っている必要がある。しかし、その知識だけでは十分ではなく、その言葉が使用された状況についても理解している必要がある。といっても、その状況に関する理解は、話し手と聞き手が共有するものではない。とくに、それぞれの視点、経歴などは共有されていない。にもかかわらず伝達が成功することがあるとわれわれが考えているのはなぜであろうか。それは、その伝達によって、実現すべき話し手と聞き手の社会的な作業が実現しているからにほかならない。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を引くまでもなく、聞き手が心のなかで何かを理解するということには、独立した価値はない。したがって、伝達の成功の基準に関する常識にてらすならば、聞き手がその言葉を理解することによって伝達は成功するとされるが、その必要条件は、聞き手がそこで使用された言葉の意味を知っていることであるという前提は成立しない。ここまでは常識。


2. 伝達と文の意味論


 そのような伝達で使用される言葉が、文の体をなさないことも常識であろう。経験的には、豊富な実例が実証する。理論的にも、それが真理値を持つような文である必要はなく、たとえば命令文や疑問文でもよいことはあきらかである。したがって、話し手が聞き手に何かを伝えようとして使う言葉が文である必要はない。少なくとも平叙文である必要はまったくない。したがって、言語の主要な機能を伝達であると考える立場からは、文の意味論の必然性は理解不可能である。

 しかし、文の意味論を考えることは、それが何の役に立たなくとも依然として可能である。使用される文の意味が話し手の伝えたいことであるとしてみよう。文の意味は、部分の意味と構造とを独立変数としているであろう。しかし、使用された文の意味、すなわち、伝達の説明に必要である文の意味は使用の当事者、相手、時、所を参照しなければ確定できないのであるから、使用される可能性のある文の意味の記述には、それらの要素がパラメータとして表われることになる。したがって、上述のような伝達モデルにおいては、話し手は、たしかに自分が伝えたいことと、そのために使用する文の意味をこの意味のパラメータの値を含めて知っているはずである。それに対して聞き手がその意味を知るためには、これらのパラメータを知ることが必要である。しかし、そのためには、何がパラメータであるかが共有されていなければならず、このためには、文の意味を等しく知っている必要がある。この共有された知識こそが文の意味であると考えられるが、もしそうだとすると、その共有を前提として使用の場面での意味が理解されることになり、その場合にはそれらのパラメータの値を知ることこそがその文の意味を理解することになる。しかし、そのようなパラメータの値を知るということは、その文(この表現は両義的であるが)が使用された場面についての知識すなわち、非言語的知識を獲得することである。文の意味を知るということが非言語的知識の獲得であるということは、事実として正しいとしても、語義的には矛盾している。

3. 文の優位性


 文が、文以外の言語的単位(すなわち、文よりも「小さい」句、単語、音素・音など、あるいは、文よりも「大きい」段落や談話など)にくらべて言語使用の説明のなかで優位的な位置を占めているという錯覚はどこに由来するものであろうか。これは、文がひとつの完結した思想を伝え、独立に真であったり、偽であったりすると考えられたからである。しかし、これは、たんなる神話であろう。文がひとつの完結した思想を伝えることになるのは、一定の文脈においてのみであり、文脈から独立に真偽が定まらないことは、ここですでに述べたことであり、この点について異議をさしはさむ人はいない。この当然の帰結は、文はそれだけでは完結した思想を伝えないということであるはずであるが、どういうわけかこちらのほうを無批判に想定する人が存在する。したがって、文の意味論を探究することに意味があるとすれば、それは、方法論上の戦略以外には考えられない。

4. 意味の使用理論の一形態から言語の付け足し論へ


 2.における帰結は、聞き手が使用された文の意味を使用されたかぎりで知るということは、言葉の意味を知ることではなく、使用の場面に依存するパラメータを知ることだということである。このことは、使用された文の理解は、その文の意味の理解ではないことを示している。文を理解することは、その使用の非言語的状況を知ることである。これは意味の使用理論のひとつの理解であると言うことができる。

 そこで文が使用されることなしに話し手の言いたかったことが理解されることはきわめて一般的な状況である。たとえば、訓練が行き届いていれば、発話は断片でよいし、仕事の流れに支障がなければ一言も発することなく相手の動きに協調して作業することが自然である。したがって、言語的コミュニケーションは、多くの場合に不要である。問題はいつ言語を使わなければならないかということである。おたがいの了解に加えて、どのような場合、どのような条件のもとで言語が必要とされ、そのような言語と呼ばれる道具がどのような機能を備えるべきであるかということが問題である。そして、そのような場合は、最小の付け足しから検討をはじめないといけない以上、文がその候補にあがることはない。