講演者: 笹澤 豊 (筑波大)
講演タイトル: 自由・民主主義道徳の根拠

 道徳の根拠を問題にする場合、我々はどういう道徳の根拠を、あるいは道徳の何を、問題にすべきなのか。古代ギリシアの道徳と西洋近現代の道徳が違うように、あるいはアフリカの部族と日本の道徳が違うように、また、同じ日本でも、戦国時代や江戸時代の道徳と第二次世界大戦後の道徳が違うように、さまざまな道徳の形がある。
 そこで、そういう諸形態に共通する「道徳の本質」をこそ問題にすべきだ、という考え方が生じることになる。だが、その場合、ではその「道徳の本質」とは何なのかが問題になるだろう。「エゴイズムの否定」が「道徳の本質」だと考える人がいる。彼は、「<実害なき密室での違反>が可能な状況があったときでも、なぜ我々は自分の欲望の充足や自己利益の追求を控えなければならないのか」と問うことになる。同様に、「人を殺さないこと」が「道徳の本質」だと考える人は、「なぜ人を殺してはいけないのか」と問い、「利他的な行為の強制」がそれだと考える人は、「利他主義の可能性」(ネーゲル)を問うことになる。――そういうアプローチの仕方は、それなりにおもしろい。特に私は、(利他主義を擁護し、倫理的利己主義を退けようとする)ネーゲルの議論に関心を持っている。ネーゲルの論理を批判することで、逆に倫理的利己主義を擁護できるのではないか、と考えている。そこで今回、それをやろうと考えたが、いろいろ考えて、結局やめることにした。というのは、抽象的な議論ではなく、もっと具体的な道徳の形を、つまり、今日我々がそのなかに住んでいる道徳の形を取り上げ、その根拠を問題にしてみたいと思ったからである。
 我々が住んでいる道徳、それは、「権利の平等」の理念をかかげる自由・民主主義の道徳に他ならない。そういう道徳を、ニーチェは、弱者の「畜群本能」に由来するキリスト教道徳の派生物とみなした。このニーチェの見解を、我々はどう受け止めればよいのか、それを考えてみたいと思う。