講演者: 大庭 健 (専修大)
講演タイトル: 道徳の「根拠」

 「道徳の根拠」という論題は、きわめて多義的、悪くいえば曖昧、よくいえば豊穣ないし多産的である。これは一般的には「根拠」という概念が多義的だからでもあるが、さらに、こと道徳にかんしては、1.根拠を問う観点が多様だからでもあり、2.問うこと自体もまた無規範ではなされえないからである。以下、まずこれらについて超簡単に確認する。
 1.法、習俗、文法などなどとならんで、道徳という規範が通用している。これは、社会的な、ひいては(「自然」という概念を、やや問題なしとはしないが拡張していえば)自然誌的な、事実である。では、この事実の根拠を問うとは、いったい何を問うことなのか? これは、もちろん論者の問題関心によって多種多様であるが、大きくいって、つぎのような問題群に分岐しよう。
 1-1.道徳の通用という事実の、因果的な(発生的ないし機能的)説明
 1-2.道徳の通用という事実の、機能的な正当化
 1-3.もっかの、ないしあるべき道徳にしたがう理由
これらは、単独で完結した問を構成するわけではないが、しかし相対的にはそれぞれに特有の方法的要請を伴う。雑にいえば、1.は、つとにゴルギアズ、カリクレスによって問われ(ニーチェやロシア・マルキストによって反復され)た、道徳心理学・道徳社会学の問であり、通常の実証科学の要請に服する。2.は、心理システム・社会システムにかんするなんらかの正常状態を想定し、それへの寄与を論じるという、評価的な観点を必要とする。3.を問うことは、さらにそれを超えて、どういう人間でありたいか、どういう社会を欲するかという実存的な投企となる。しかし、このことは3.にのみ固有な事態なのではない。2.道徳の根拠を論じるとき、ことに道徳心理学・道徳社会学的な考察に傾けば傾くほど、論者は、あたかも自分がいっさいの規範から自由なゼロ点という高みから、道徳に縛られた大衆の言動を観察しているかのように錯覚する。(ニーチェの金切り声よりも、ボードレールのドスのきいた詩のほうが魂に響くのは、このせいでもある)。道徳の根拠を問うということ自体、すでに・そのつど、現に他にたいして何かであるものとして、他に対してさらに働きかける営みであって、道徳は、この営みにも及んでくる。生きているかぎり免れえないこの事実に盲目な自己チュウ児が「無根拠」を声高にしゃべり始めるときには、その議論もどきは、ボクだけはフリーライドしていいという自己特権化しか語られてはいない。そうであることが、非常に多い。